11.「石川県立工業高等学校」と改称 (昭和33年4月)

賛否両論のなか、昭和33年4月、石川県立工業高等学校と改称する。明治20年、兼六園の園内で創立された金沢区工業学校から81年が経過した昭和33年4月、5回の改称を経て現在の校名である石川県立工業高等学校となる。

羽野校長がポイントを切り替え、校舎改築のレールの上を改称された石川県立工業高等学校が進んでいく。羽野20代校長は帰京する。しかし、東京美術学校への返り咲きではなかった。

11-2野川 日出雄21代校長に就任 昭和34年4月~38年3月 在職

昭和34年4月、野川日出雄21代校長が就任。同年5月、電気棟が竣工する。翌年に機械工場(機械科実習棟)が37年には工業化学棟が竣工し、工業高校としての色を濃く呈していく。これら実習棟、その他全校舎の改築は昭和44年のデザイン棟竣工まで10年余り続く。その間、昭和38年4月、定時制(4年)課程を新設し、機械科、電気科を置く。よって昭和36年に併設した石川県立機械工業専門学校の生徒募集を昭和42年3月をもって停止する。

11-3菊池 計一22代校長に就任 昭和38年4月1日~40年3月31日

昭和38年、定時制課程が新設される。

11-4金子 信一23代校長に就任 昭和40年4月1日~42年3月31日(平成2年1月30日逝去)

11-5藤井 澄文24代校長に就任 昭和42年4月1日~48年3月31日(平成6年10月5日逝去)

11-6香村 忠25代校長に就任 昭和48年4月1日~51年3月31日(平成4年3月23日逝去)

12 90周年を目前に記念館の完成(現特別棟)

昭和38年の定時制創設と女子生徒の増加に伴い、定時制の食堂設置と家庭調理実習室の設置が急務となる。昭和47年に県教育委員会から、1階が食堂、2階が調理実習室という計画を提示されるが、狭い敷地内に同窓会館も同時に建てることには難色が示された。2階建ての食堂・家庭実習室棟に、同窓会が以前から準備してきた同窓会館建設資金をもとに3階を寄贈することにし、最終的に3階建ての案を示した。この案が受け入れられ、昭和48年の秋に現在の特別棟(当時は記念館と称す。)が完成した。この記念館建設のため八日市屋氏の寄付で建てられた武道館が現役を退くこととなる。戦後の失火の難を免れた作品が特別棟3階に陳列され、70周年寄贈作品が加わることでギャラリーの品格はさらに高まった。羽野校長在職中には果たせなかった「失った美術工芸品の充実」が現実のものとなった。製品陳列場を焼失してから記念館が完成するまでの30年近く、作品管理はデザイン科(図案科・産業意匠科)棟で行われ、作品展示などは武道館で行われていた。

12-1 安宅 彰亮26代校長に就任 昭和51年4月1日~53年3月31日

12-2 栗田 与一27代校長に就任 昭和53年4月1日~57年3月31日

12-3 南 幸雄28代校長に就任 昭和57年4月1日~61年3月31日

12-4 「100周年」に向けて

創立80・90周年と時は流れ、昭和62年に100周年を迎えることとなる。1世紀にわたる歴史の重みに相応しい記念事業への取り組みが始まる。
①同窓会館の建設 ②百年史の発刊 ③卒業生名簿発刊 ④記念作品展(県立美術館)⑤姉妹校提携等が組み込まれたいった。石川県は伝統工芸王国と言われるようになり、その中に工芸科設置を何としても100周年までに実現したいという願いも含まれていた。
ビジョン委員会にみる工芸科創設前夜
創立90周年前後の学校運営は昭和47年4月刊行の「教務内規集」によるものであったが、昭和53年8月30日、文部省告示第163号で新しい高等学校学習指導要領が公示され、教務内規の改定が検討されることとなる。この年、ビジョン委員会が設けられる。学校管理計画によると「ビジョン委員会において将来の本校のありかたについて検討するとともに、特色ある教育を行うための具体的方策・条件などについての研究をすすめる」ものとあり、各種委員会の冒頭に位置づけられ、本校のあるべき未来像を検討することとなった。その主管は総務課に置かれ、その年の11月から新教育課程の検討がなされた。

この頃から徐々にPTA、同窓会、学校の三者が一体となり様々な要望実現に向けた動きが活発化してゆき、昭和55年になると創立100周年記念行事を遂行するための準備に向けて検討されはじめ、同57年になると機械科実習棟の建設と工芸科の新設などを含めて検討される。当時、高校入学生の増加は昭和64年がピークで、65年以降は減少傾向で能登地区は深刻な事態が予想されており、生徒数の増減が検討課題のなかに重みを加えていた。

昭和58年9月に工芸科の基本構想と工芸科準備委員会の設置について検討された。7名の委員で検討を重ねてきたビジョンに委員会は、この頃になると委員数を2倍近くに増強していた。

12.「工芸科設置」による工芸色の復活

工芸科設置の動きは太田誠二校長17代校長が昭和13年5月に「石川県立工業学校改築趣意書(案)」として「工芸部」の設立陳情したことから始まり、昭和33年の設置課程改廃における羽野禎三苦渋の決断を経て行く。創立80周年を迎える昭和42年頃となるとPTA・同窓会・学校の三者が一体となり活発化してくる。

高度経済成長や工業化社会の急速な進展がもたらした歪みの是正を、伝統産業である石川の工芸を教育の場に取り戻すことで図りたい。併せて昭和58年から中学校卒業生が増加するのをふまえて県教育委員会で対策が検討され始めた。職員会議でも論議され殆どの職員が工芸科設置賛成し、工芸科設置運動はより強まっていった。(大聖寺実業高等学校も同様に設置要求を出すが実現には至らなかった)昭和59年4月、工芸科が設置される。しかしながら実習棟は竣工中で工芸科1年生はデザイン科の設備を間借りするようにして実習、工業技術基礎の教科で作品制作を行っていた。翌60年4月、工芸実習棟が完成し、新2年生が窯業(陶芸)、染色、漆芸、進学(造形)の4コースに分かれ真新しい実習設備のなかで作品作りに取り組み始めた。同年6月、工芸棟に設置された3機の陶芸用焼成炉(電気炉2機、ガス炉1機)に火が入った。これらの窯は南幸雄28代校長(本校出身)によって「雪華窯」と命名された。

12-1 笹谷 和男29代校長に就任 昭和61年4月1日~63年3月31日

「創立100周年」を迎える  昭和62年10月~

創立100周年を迎えるにあたり卒業生に作品の寄贈を募った。寄せられた作品を含め所蔵作品は400点を超えた。特別棟3階に展示ケースが4台増設され、展示内容は充実していった。この展示室は笹谷和男29代校長によって「ギャラリー雪章」と命名され、それを機に所蔵作品図録集を発刊した。

同窓会館も完成し、雪章会館と命名された。百年史と卒業生名簿を発刊した。

12-1 関戸 信次30代校長に就任 昭和63年4月1日~平成2年3月31日

12-2 金曽 賤男31代校長に就任 平成2年4月1日~4年3月31日

電気実習棟の改築

12-3 西川 拓32代校長に就任  平成4年4月1日~7年3月31日

12-4 岸野 滋33代校長に就任  平成7年4月1日~9年3月31

12-5 野口  嘉與34代校長に就任 平成9年4月1日~11年3月31日(平成23年逝去)

創立110周年記念寄贈作品
陶芸作品2点、絵画14点、彫刻3点が記念寄贈作品として寄せられた。平成10年3月27日、飛鳥哲雄の戦前の作品(旧作)、戦後の作品(新作)80点が遺族より寄贈され、金沢画壇における飛鳥哲雄の功績を知る資料が、母校に集積されることとなった。これは飛鳥哲雄と親交のあった故桑原辰男氏(昭13年図案科卒)の尽力によるもので、氏の作品も生前に寄贈していただいた。

12-6 斉藤真一郎35代校長に就任  平成11年4月1日~12年3月31日

12-7 西 光太郎36代校長に就任  平成12年4月1日~15年3月31日

12-8 福島 良治37代校長に就任  平成15年4月1日~17年3月31日

12-9 宮前 憲彌38代校長に就任  平成17年4月1日~19年3月31日

◎平成18年、創立120周年を迎える
戦後まもなくして迎える創立60周年は戦中戦後の失火による校舎の復旧が捗らず、1年遅れの昭和22年に式典を開催せざるおえなかった。しかし、その後の記念式典は60周年からカウントして開催され、10周年まで1年遅れのままであった。今回の120周年は正規の記念式典に修正することになり、永年勤続表彰の扱い方に戸惑うところがあった。

記念美術展
10月3日から9日まで「120周年記念美術展」歴史と伝統、次代を創るアートメッセージが21世紀美術館市民ギャラリーAで開催された。
出品者数115名であった。第1会場の金沢21世紀美術館では、若手卒業生の作品を中心に、写真、デザイン関係の作品も含め、卒業生の幅広い活躍を見ていただき、第2会場のギャラリー雪章では、開校時からの流れを紹介した。

記念茶会
記念茶会は10月8日(日)に抹茶席を金沢市中村記念美術館旧中村邸で、煎茶席は石川県国際交流サロンを会場として開催された。記念茶会は創立110周年でも開催されたが、趣旨は本校卒業生と教鞭を執られた方など、縁のある方々の作品で道具立てするというもので前回と同様であった。
記念式典・記念講演
記念式典は10月14日(土)金沢市観光会館で開催された。記念講演は元内閣総理大臣森喜朗氏によるものであった。

記念祝賀会
10月14日午後?時から金沢全日空ホテルで開催された。企画当初から500人の参加を目標としていたが現職員や旧職員の参加が多く、目標の500名の参加が得られ盛大に開催された。
学校側は所蔵作品について詳細に紹介する「創立120周年記念美術工芸所蔵作品図録」~美術・工芸とデザイン120年の軌跡~を発刊した。所蔵作品図録に関しては創立100周年を記念して昭和63年3月にすでに発刊されていたが、今回は作者紹介や本校の各部門に於ける歴史的教育内容等を加えて発刊した。

創立120周年記念寄贈作品
現在、漆芸部門に4名の重要無形文化財保持者を輩出しているが、松田権六、寺井直次は故人となられた。昭和32年の70周年記念で戦後の教育復興に一区切りを付けるが、その際に大場松魚先生から寄せられた「鶴棗」によりギャラリー雪章に花が添えられた。今回は得意とされる平文の技術が盛り込まれた「平文清光干菓子盆」を寄贈していただいた。
昭和34年に窯業科を卒業し、親子二代で「沈金」部門の重要無形文化財保持者に認定された前史雄先生から「沈金菊しずく平棗」が寄贈され、沈金作品の初所蔵となった。さらに、吉田芳子氏から故吉田冨士夫画伯の作品2点が寄贈され、所蔵点数は合わせて6点となった。今回はスペインで描かれた「静物画」と晩年の作品が寄せられ、画伯の初期から晩年に至る作風の変化が鑑賞できるようになった。

山本 和男 39代校長に就任 平成19年4月1日~平成21年3月31日

定時制課程の廃止
平成21年3月、定時制の閉校式が挙行され、46年間の歴史の幕を引いた。

松井 廣 40代校長に就任 平成21年4月1日~平成24年3月31日

山田 勝裕 41代校長に就任 平成24年4月1日~

 平成25年、工芸科創設30周年を迎える。

13.本校に設けられた併設学校

明治41年に併設された補習学校(夜学)に始まり、昭和38年に定時制課程(4年)が新設されたことで募集を停止した石川県立機械工業専門学校まで、社会の変化と様々な試みとを兼ね合わせながら五つの学校が併設されてきた。

13-1石川県立工業補習学校 (校名50年史より)

明治41年3月、石川県立工業補習学校を併設する(創立・附設)。実業補習学校規定に基づき設けられた夜学であった。明治41年4月志筑校長兼務となる。
大正11年3月をもって廃校とする。

13-2傷痍軍人の為の教育施設を附設

田邊校長の手記に、「傷痍軍人の工業教育に協力、陸軍との関係を円滑にして、とくに工業学校卒業生への援護、配慮を期した」と記され、また、昭和14年3月23日「北陸毎日新聞」によると「傷痍軍人再教育に国立工芸指導所がほしい(田辺校長)」とあることから、このような施設は国立で対処すべきであると考えていた。ともわれ傷つき帰還する同窓を何とかして再起させたく次の施設を附設していく。

13-2-1石川県傷痍軍人工業教育所 昭和14年3月31日附設

田邊校長が石川県傷痍軍人工業教育所 所長、講師を務める。色染科科長であった廣辻圭三が舎監を務めていた。家具製作に抜群の技を持つ油谷佐喜知(木工科長)が義肢修理所技術員を兼務していた。

13-2-2石川県傷痍軍人職業教育所

昭和16年、傷痍軍人職業再教育所を附設。翌年2月21日、田邊校長が石川県傷痍軍人簡易作業所設立準備委員会幹事に就く。

昭和18年3月18日(水)「傷痍軍人教育所修了式」(北国新聞)によると、「石川県傷痍軍人教育所では19日午後3時から再起の道にいそしみ、このほど全課程を修業した傷痍軍人7名の第8回修了証書授与式を挙行する」がある。

この記事により、傷痍軍人職業再教育所の生みの親である田邊校長が昭和17年8月27日、依願退職した後も続いていたことが分かるが、何時廃止されたかは不明。

13-3石川県立工業学校併設中学校

昭和23年、石川県立工業学校併設中学校を設ける。翌年、校名改称となり、共に石川県立金沢工芸高等学校併設中学校となる。旧制中学校の3年生で総数368名、主として旧金沢三中生であった。

13-4石川県立機械工業専門学校

昭和36年、石川県立機械工業専門学校を併設する。昭和38年4月、定時制(4年)課程を新設し、機械科、電気科を置く。そのような事情も含め、昭和42年3月で募集を停止する。

14.おわりに

前回の紀要で納富初代校長が明治24年に帰京し、しばらくは来県していないように記したが、次の記事を伊藤義直元教員が入手されたので紹介し、訂正したい。
明治26年8月12日(土)「本社(北国新聞)開業式に付き来沢に謝す」

「8月6日午後7時より来賓120名で開業式を開く。社員総代で赤羽萬次郎氏が挨拶。南惣一郎氏が来賓に祝辞。」とあり、来賓名簿のなかに納富介次郎、村上九郎作の名があった。

氏名・在職期間 卒業年・科名 (最終学歴)
青木 外吉15代校長
大正8年4月~昭和2年10月
明治28年、窯業科卒業(明治36年から本校就任)
(明治34年、東京美術学校彫刻科卒業)
田邊 孝次18代校長
昭和14年3月2日~17年8月27日
明治41年3月29日、窯業科製陶部卒業
(大正2年、東京美術学校彫刻科塑像部卒業)
羽野 禎三20代校長
昭和21年6月~34年3月
大正10年、図案絵画科卒業
(東京美術学校図案科・図案教員課程を卒業)
南 幸雄28代校長
昭和57年4月~61年3月
昭和17年12月、応用化学科卒業