6.昭和に入る(安定期と苦悩期)

石川県の工芸作家の育成に務めた青木外吉15代校長時代から山脇雄吉校長16代校長時代が本校の安定期とわれている。青木、山脇とも美術学校の出身で緩やかに転機をもたらしたと言える。次いで太田誠二17代校長が就任する。太田校長も美術学校の出身であった。創立50周年記念事業を無事終えたが、教科課程の改訂にともなう難題を抱える。同じく美術学校出身の田邊孝次が18代校長に就任し、軍国主義のなかにあっても工芸を保存、存続に尽力した。4名とも美術学校出身、しかも青木、田邊は本校卒業生である。

山脇 雄吉16代校長に就任 昭和2年10月~10年7月 在職

明治8年、鳥取県に生まれる。号をこう雲、荷声、雄輝と称す。東京美術学校日本画科を卒業後の明治29年~明治33年まで図案絵画科教諭を務め、上京して橋本雅邦につき絵画を研究する。再び本校に奉職。大正8年~昭和2年まで図案絵画科教諭を務め、まで16代校長を務める。在任中の大正9年、絵画研究会六耀会発足に貢献する。(玉井敬泉に同じく)昭和20年、70歳で逝去。写真-5、聖徳太子の図と他に菩薩の図を所蔵する。

太田 誠二校長17代校長に就任 昭和10年 ~14年

昭和59年に工芸科が設置されるが、それに先んずること昭和13年5月に「石川県立工業学校改築趣意書(案)」として「工芸部」の設立陳情を行っている。

年代は確定できていないが、渡欧し見聞を広めている。帰国のさいに美術参考資料として何点か持ち帰っている。その中にロートレックのポスターが含まれていたと思われる。陶磁器も含まれていて、作品の箱書きにヨーロッパから持ち帰ると記載されている。

6-1創立50周年 昭和11年(1936)

教育方針を「智徳併進主義を探り質実剛健にして工夫創作に富む進取的工業青年を育成するに在り」としてきたが、ここにめでたく50周年を迎える。太田誠二17代校長は校友會誌「創立五十周年記念特集号」の巻頭の辞で「十年を一昔と云ひ、五十年を一生と云ふ。(中略)温故知新は将来への飛躍に當つて最も必要なことであると思ふ。」と記し、特集号のなかに初代校長納富介次郎について詳細に取り上げた。執り行われた50周年記念事業は次のようなものであった。

記念式

昭和11年(1936)10月30日、午後1時より記念式を本校講堂で挙行する。前日は雨であったが天候にめぐまれる。

同窓祝宴会

30日、午後5時より鍔甚樓に於いて開催。幹事は松川久衛。130名出席する。

記念講演会

31日、午後7時より教育会館講堂において記念講演会を開く。東京美術学校教授田邊孝次(明治41年窯業科卒)氏による「現代工芸の趨勢(すうせい)に就いて」(文展に於ける石川県の工芸)と桐生高等工業学校教授理学博士 豊田今吉(明治32年染織科卒)氏による「絹糸に就いて」であった。

記念展覧会

10月31日より11月1日迄、記念展覧会を本校を会場として開催。

同窓会美術展覧会

11月1日より5日間にわたり、同窓会美術展覧会を丸越百貨店ホールにおいて開催。157点の出展があった。

記念運動会

11月5日、記念運動会を本校、校庭にて行う。
以上の行事を盛大に繰り広げる。この時期に教科改訂に伴う科の改編が検討されていた。

6-2張間喜一在職中の科の改称

昭和12(1937)年4月、漆工科を塗工科に、図案絵画科を図案科に改称する。科の名称の改訂はいうまでもなく、教科課程の改訂をともなっていたので、塗工科ではこれまでの漆芸に代わって洋塗(カシュウなどの洋塗装)を大幅にとり入れた。図案科では洋画を基礎美術としての面にとどめようとするものであった。科の改称に関して諮問委員会が招集された。このころ諮問員は、工業諮問員と改められていた。この席上で改称の可否をめぐって論議がたたかわされたが、結局二、三の諮問員の強力な発言によって改称に賛成することになったと伝えられている。これによって塗工科志願者は増加したという。窯業科でもこの時に製陶・陶画の別を廃止した。昭和3(1928)年から10年にわたって母校で教鞭を執った張間喜一は、満州事変から日中戦争への激動期に在職し、この改称時期に直面した一人である。

張間 喜一 (大正10年漆工科描金部卒業・昭和3年~13年在職)

明治35年、輪島市に生まれる。本校卒業後、東京美術学校漆工科に進み、昭和15年、卒業後、六角紫水研究所、石川県商工技手を経て本校に赴任する。昭和12年、新文展n入選。同17年には文展特選、翌年には無鑑査となる。昭和21年、静岡県立工業試験場長、同30年、輪島市漆器研究所顧問、会津若松市漆器協同組合顧問、同44年、輪島市漆器研究所所長などを歴任。漆工芸の技術指導と後継者育成に力を尽くした。短歌にもすぐれ、斎藤茂吉・土屋文明に師事する。 静岡を去る喜一に師である土屋文明より「能登の国 輪島はわれもなつかしよ 神馬藻食ひて静かにいませ」と惜別の歌を贈られている。昭和56年12月、79歳で逝去。

写真-8、張間喜一作 飾箱「薊の図飾筥」は昭和21年3月31日に購入された作品である。
写真-9、太田誠二17代校長作 「盛器」

7.戦前戦中の人事

創立50周年を終え、太田17代校長は昭和13年に「既設学科の全てが化学を共通の基礎科学とする」として応用化学科を新設し、やがては6科を科学的学科にのばしていこうと考える。理科教室での授業でまかなうが、その充実を図ろうと学校改築趣意書を提出する。そのなかに工芸部の設立が含まれていた。引きたいとする太田校長は

7-1誰を校長に(誰が校長になってくれるのか)

田邊孝次校長の手記を挙げながら、金沢赴任当時の情況や校長として奮った手腕、足跡にふれてみたい。手記については□に括り、新聞掲載記事を用いて手記との関連性を深めてみた。
昭和13年1月 手記より    ○ 工業学校長、太田誠二氏来訪す
工業学校の校運不振、わずかに応用化学科を新設して、時勢に合わせようとしているだけでは、太田氏はそろそろ退任したい、後任を推薦してほしいと依頼される。できれば東京在住の人で力のある人がほしいという。東京美術学校工芸科の津田信夫教授に人選を依頼。津田教授は奔走したが適任者がいない。

太田校長、再三来訪されて、それならば田邊自身が引き受けてくれないか、という。最後は、正木直彦前美校校長(このとき帝国美術院院長)の決断で、私が引き受けることになった。この件で東京美術学校の教官は賛成、反対の二派に分かれた。

田邊孝次が県工の校長に決まり、美術学校は学園の損失と言いながらも県工が立ち直り優秀な生徒を送り込んでくれることを期待した。しかし、この田邊就任は一部に不安を募らせた。 昭和13年11月15日の「日刊美術通信」(東京市京橋区銀座)に「田辺孝次、県工へ転任のうわさ、校長として学校改革を断行、教員人事につき、金沢出身の芸術家は警戒」があった。

7-2田邊孝次18代校長に就任 昭和14年3月2日~同17年8月27日 在職

昭和14年3月2日、田邊孝次が石川県立工業学校18代校長に就任する。就任時の手記に改革の要点と改革後の個人的な目標が記載されている。
昭和14年3月2日付けの手記   ○ 工業学校改善の要点
1.校舎の拡張 2.教職員の新旧交替 3.校風の発揚 4.教授法の改良 以上の4点について反対派、賛成派と連日話し合い、初心を貫いた。さらに給食の実施は(戦時における物資統制が強まる中で、実習に必要な燃料、原料、機材の調達とともに、給食用の食糧の入手に関し困難が多くなる。監督官庁との折衝に奔走する。)誤解を招いたが、断固実現した。せいぜい2年間ぐらいで、方向づけができれば、後はなるべく早く退任して、勉強にもどり、本を書きたいと思っていた。だから仕事は急ぎに急いだ。

次いで、知名度を上げようとして奔走する姿が見える。
また、東京から学者、芸術家に来校を乞い講演も催した。正木直彦先生にも来ていただいた。なお、前外務大臣佐藤尚武氏、前田侯爵にも来校、講演、視察をしていただいた。(これらのための諸経費、とくに接待費など私財を投入することが多かったが、誤解も招く)多忙をきわめたが、東京美術学校講師としての特別講義はきちんとこなし、中央の各界との連絡を密にした。同窓会の会合も積極的に実施した。関西でも同窓会の会合を行った。また、秩父宮家から田邊あて、支那料理25人分の食器制作の下命をいただき、その制作を実施した。制作・安達陶仙(明治23年陶画科卒業)窯業科教諭。県工内に特別室を設置して実施。

着任時の状況が掲載された記事を幾つか上げる。
昭和14年3月6日(北陸毎日新聞)「田辺校長着任。気長に育てるさ」
昭和14年3月29日(北國新聞)「秩父宮、田辺校長へ御言葉石川県工芸へ深きご理解」
昭和14年6月11日(日刊美術通信)「田辺県工校長、県立工芸指導所長を兼任か?」これは正木直彦グループの暗躍か、そのねらいは県立工業学校を高等工芸学校へ格上げではないか、それにより「現在の県工教員は辞職させられるのではないか」と噂になる。等がある。

7-3田邊校長の在任中の足跡と略歴

ここで田邊校長の足跡と略歴について、伊藤義直元教諭がまとめられたので紹介する。

①御真影奉安殿の完成。
②剣道道場を寄付で完成。(現在の特別棟が完成するまでは武道館として活用されていた)

 手記に「昭和17年、県工に剣道道場がないという批判にこたえて、八日市屋清太郎氏に寄付を仰ぎ完成させたが、県庁の考えと合わず非難を受ける。」とある。

③精密機械科を新設する。

 昭和14年5月30日(北陸毎日新聞)に「県工、奉安殿新築、精密機械科新設を計画とあり」と報じられ、ほぼ時を同じくし、昭和14年4月30日(読売新聞石川版)「田辺校長は音楽教育が必要とし県工にグランドピアノを寄贈する」があり、情操教育の必要性を当時の風潮に屈せず主張した。

④講堂を増築すると共につなぎ廊下を新設する。

 生徒の移動が天候に左右されずにスムーズになった。しかし、つなぎ廊下に関につて県は不服とする。(勝手に設置したとする県)

⑤自転車置き場を2カ所新設する。
⑥給食場を新設、学校給食を実施。

 手記に「他校より資力の弱い家庭の子が多い。体力測定では平均値を下回る。県の反対を押し切り学校給食を実施する。当然の如く平均値を上回ろうとするではないか」とあり、昭和15年1月15日付けで石川県重要物資配給協議会委員を引き受けている。これは給食や実習用物資を本校に安定供給させようとして、多忙でありながらもその役職に付き公平を図ろうとした。

⑦職員の半数を新旧交替。
⑧図書室を改善、新規購入図書の増大、田辺自身も美術図書寄贈

 昭和14年7月9日の北陸毎日新聞に「県工図書室改良、田辺校長図書寄贈500~600冊」がある。

⑨校友会、同窓会の経営を改善、同窓会誌の発行実施
⑩校内規律(職員・生徒)を刷新し、上級学校への入学率の向上を図る。

 田邊校長は新たな取り組みに対しては報道機関に取り上げさせる。生徒にその記事を見せることで卒業生と在校生の自尊心を高めて、県下と市中の不評を一掃したのである。

例としてあげた①を除き、今後のビジョン検討項目に掲げても違和感のない取り組みであったといえる。次いで略歴を紹介する。

田邊 孝次18代校長略歴 (平成15年1月集約)
明治23年 4月21日 石川県金沢市裏千日町47番地に生まれる。
(石川県士族)
明治30年 4月 1日 金沢市野町尋常小学校入学
明治33年 3月29日 同校卒業
  〃   4月 1日 金沢市長町高等小学校入学
明治37年 3月30日 同校卒業
明治37年 4月 1日 石川県立工業学校 窯業科製陶部入学
明治41年 3月29日 同校卒業
   〃   4月 8日 東京美術学校 予備科入学
   〃   9月 1日 同校 彫刻科塑造部本科1年に入学
大正 2年 3月29日 同校卒業 在学中特待生に3回選定される。
   〃  4月 7日 同校研究科入学
大正 3年 3月30日 同校研究科退学
大正 3年 4月 1日 画報社入社 「美術新報」編集員及び「美術週報」編集主任となる。
大正 4年11月30日 画報社退社
   〃 12月 1日 1年志願兵として歩兵第三連隊(東京 麻布)に入営
大正 5年11月29日 除隊、陸軍歩兵軍曹
(歩兵第三連隊)
   〃 12月 1日 審美書院入社 「美術之日本」編集
大正 7年 8月29日 陸軍歩兵曹長
(6月1日~8月29日、歩兵第三連隊入営)
   〃 11月 8日 東京美術学校助手
(東京美術学校)
大正 8年 5月23日 同校講師
(東京美術学校)
   〃  8月30日 同校助教授
(文部省)
大正 9年 3月29日 陸軍歩兵少尉
(内閣)
大正10年5月4日~
大正13年3月31日
東京女子高等師範学校講師兼務
(同校)
大正13年9月27日~
昭和2年1月17日
文部省よりヨーロッパ(フランスなど)留学
(文部大臣)
パリ、ソルボンヌ大学聴講生
昭和 2年 4月11日 東京美術学校 工芸史、東洋彫刻史、東洋美術史授業担当
(東京美術学校)
昭和 2年10月23日 東京高等工芸学校講師兼任
(同校)
昭和 3年10月19日 フランス政府より「オフィシエ・ド・ランストリクション・ピュブリック」
勲章授与される 佩用允許
(賞勲局)
昭和 7年 4月16日 東京美術学校教授 兼 東京美術学校生徒主事
(内閣)
昭和5月1日~昭和11年 第11回朝鮮美術審査委員会委員、第15回まで委員を受託
(朝鮮総督府)
   〃  6月29日 フランス政府より「オフィシエ・エトワール・ノワール」勲章授与される
佩用允許
(賞勲局)
昭和8年5月16日~
昭和9年5月12日
李王徳寿宮及び朝鮮総督府の美術品調査などの嘱託を兼任
(李王職、朝鮮総督府)
昭和 9年 1月15日 シカゴ万国博覧会 工芸部出品委員
(シカゴ万博出品協会)
昭和12年 2月 1日 パリ万国博覧会 日本館 嘱託
(パリ万博協会)
   〃   3月11日 第7回世界教育会議 工芸教育部委員
(帝国教育会)
   〃   4月16日 パリ第8回国際美術教育会議 日本代表
(日本国際美術教育聯盟)
   〃   5月27日 文部省よりヨーロッパ各国の美術品調査のため欧州出張(5~10月)
(文部大臣)
昭和13年 2月28日 東京女子美術工芸学校講師兼任(同校)勲六等 瑞宝章をうける
昭和14年 2月14日 (賞勲局)公立実業学校長 高等官五等 待遇(内閣)
   〃   3月 2日 石川県立工業学校長
   〃   3月20日 (文部省)帝国発明協会 石川県支部 理事
(石川県)
   〃   3月23日 石川県工芸指導所 商議員
(石川県)
   〃   3月31日 石川県傷痍軍人工業教育所 講師
(石川県)
石川県傷痍軍人工業教育所 所長
(石川県)
石川県地方工業化委員会 委員
(石川県)
   〃   4月11日 社会教育 講師
(石川県)
   〃   4月15日 石川県工芸奨励会 評議員
(石川県)
   〃   5月 3日 石川県染織試験場 評議員
(石川県)
   〃   5月20日 東京美術学校 講師 (西洋工芸史 特講担当)
(東京美術学校)
   〃   6月16日 金沢観光協会 評議員
(金沢観光協会)
   〃   6月20日 石川県輸出工芸振興会 評議員
(石川県)
昭和14年 7月28日 金沢商工厚生会 評議員
(石川県)
   〃   9月 8日 第6回北信工芸展覧会 鑑査.審査員、並びに講師
(石川県)
   〃   9月30日 石川県国民精神文化長期講習会 講師
(石川県)
   〃  11月 8日 石川県中等学校入学者選抜方法審議会 委員
(石川県)
   〃  11月16日 石川県美術協会 幹事
(石川県美術協会)
   〃  11月25日 石川県傷痍軍人雇傭委員会 委員
(石川県)
   〃  12月 1日 高等官4等 待遇となる
(内閣)
   〃  12月15日 正六位を拝命
(宮内大臣)
昭和15年 1月15日 石川県重要物資配給協議会 委員
(石川県)
   〃   2月12日 石川県工芸奨励会 評議員
(石川県工芸奨励会)
   〃   2月23日 石川県思想対策研究会 評議員
(石川県)
   〃   4月18日 社会教育 講師
(石川県)
   〃   4月25日 石川県工芸指導所 評議員
(石川県)
   〃   5月 1日 石川県工芸品輸出貿易組合 名誉顧問
(同組合)
   〃   6月29日 石川県傷痍軍人義肢修理所長 兼務
(石川県)
昭和16年 1月28日 青年学校視学委員  但し石川県担当
(文部省)
   〃   3月26日 石川県青少年団専門委員
(同団)
   〃   3月28日 石川県工芸奨励会 理事
(同会)
   〃   4月10日 石川県協力会議 委員
(大政翼賛会)
   〃   4月17日 金沢商工会議所 諮問委員
(金沢商工会議所)
   〃   5月 2日 社会教育 講師
(石川県)
   〃   7月 5日 石川県工芸指導所 指導員
(石川県)
   〃   8月 6日 石川県職業紹介委員会 委員
(厚生省)
   〃   9月10日 大政翼賛会石川県支部 文化委員会 委員
(同部)
   〃   9月16日 昭和16年9月施行 国民学校教員試験検定臨時委員
(石川県)
   〃   9月30日 石川県国民精神文化長期講習会 講師
(石川県)
昭和17年 1月 7日 石川県工芸文化協会 委員長
(同会)
   〃   2月 7日 大政翼賛会石川県支部 参与
(同会)
昭和17年 2月16日 御下命品完納につき酒肴料一万疋、並びに御菓子一折下賜
(秩父宮家)
   〃   2月21日 石川県傷痍軍人簡易作業所設立準備委員会幹事
(同所)
   〃   5月13日 社会教育 講師
(石川県)
   〃   8月 1日 福利厚生に関する業務を委託される(陸軍航空工廠)
(陸軍嘱託)
昭和17年 8月27日 石川県立工業学校長 依願退職
(内閣)
   〃   8月27日 一級俸下賜
(石川県)
   〃   8月29日 県工講堂にて全校生徒.教職員による送別式
   〃   8月31日 石川県美術協会 幹事 依願退任
   〃   9月 1日 単身金沢を離れ、立川の陸軍航空工廠に赴任
昭和18年 1月30日 東京美術学校 講師退任
(東京美術学校)
昭和19年 紺綬褒章受章

 

限界、依願退職しかない

手記より(依願退職への思いを抜粋)
○ 毎週のように県下の各地で講演を頼まれ、努力して相つとめたが、疲労する。このことは校長在任中、いつも同じだったので、次第に不快な思いがつのる。
○ 昭和17年3月、何かと誤解されやすい現在の生活に嫌気がさして、県の岡部学務課長に会い、校長就任後3年経ったからと辞表を表明する。しかし慰留されたので、さらに部長に会って辞めたいといい、重ねて学務課長に申し出て、辞表を提出する。(5ヶ月後、8月に受理される。)陸軍航空工廠へ陸軍嘱託として勤務発令後に赴く。

昭和19年12月、陸軍航空工廠の業務困難、アメリカ空軍の空襲による、工場疎開の開始下、過労にて体調をくずし病床に伏す。

昭和20年4月16日、金沢市中本多町4番丁2番地の自宅にて病没。病名肺エソ。葬儀に際し、秩父宮家より弔問の使者、来沢、弔慰金を賜る。陸軍より戦病死の認定あり、内閣より勲五等、宮内庁より正五位を受く。

秩父宮へは昭和2年、『東洋美術と西洋美術の比較』を御進講申し上げ、以後、終生、美術顧問として伺候。秩父宮薨去ののち、長男 田辺 徹、秩父宮妃殿下へ毎年1月2日、新年の伺候に参内。田邊孝次、金沢を去り、昭和17年8月、松沼謹太郎が19代校長に就任する。
(この項、7-3は伊藤義直元教諭の集約資料提供による)

松沼 謹太郎19代校長に就任 昭和17年8月~昭和21年3月

明治22年、茨城県猿島群に生まれる。大正14年、本校機織科主任として奉職。昭和17年8月に19代校長に就任する。温厚で抱擁力の大きな人柄で生きた愛情教育を行った。不運なことに2度の出火にみまわれ、責任を負って昭和21年3月辞任する。

7-4戦中戦後、二度の校舎焼失

昭和18年3月9日午後11時頃、本館教務室付近から出火。本館・講堂・生徒控所・漆工科実習場の約500坪を焼失する。出火と同時に生徒・同窓生・付近民などが駆けつけ膝まで没する雪の中を消火作業にあたる。隣接する図案科・窯業科などの備品や展示作品などの搬出にあたったが学籍簿などの学校重要書類はほとんど焼失した。

出火原因については、翌日から学年試験を開始することになっていたので放火説が浮上したが原因はつかめなかったと年史では扱っている。

この出火の連絡を受けた18代校長であった田邊孝次の一声は「教職員は学校内で飲み食いをしてはいけないとあれほど指導してきたのに」であった。

校舎が本多町に移ってから(明治34年)製品陳列場を充実させることとなる。最新の設備、職員の研究意欲は生徒のみならず業者に対しても対応するほどであったというが残念なことにこの出火によって製品陳列場はもより作品の殆どを失う。

次に北国新聞掲載記事を幾つか挙げる。

昭和18年3月11日  「昨夜県立工業焼く」

昨夜県立工業焼くと報じられる。松沼校長談として「誠に申し訳ない三分の一の焼失で済み、御真影が無事だったのは不幸中の幸い、生徒の学力低下をきたさぬよう現設備で全能力をあげたい」とした。
謝近火見舞いが多く寄せられたことも忘れてはならない。十数件の謝近火見舞いのなかに友田組、金城高等女学校、箔商今井小三郎がある。
また、12日の紙面で工業校の火事を胸深く刻み「春は火を呼ぶ」ので注意するようにと呼び掛けられている。

昭和18年3月14日(日) 「県工出火原因取調べ」

過般の石川県立工業学校出火事件について広坂署で新調に原因取調べを行っているが悪質のものでないことは断定されその結果漏電か失火によるものと見られ近日中にその何れかが判明する。
昭和18年3月14日(日) 「復興へ募金を捧ぐ 県工同窓会員ら」
石川県立業学校同窓会は3月11日の午後5時から金沢織物組合で役員会を開催、同校出火事件につて(審議し)同窓会代表尾山(督二)氏らが基金を募る(ことはもとより)、復興陳情を行う。(校舎が焼失し同窓会が対策)

昭和18年3月18日(水) 「県工の火事は漏電」

石川県立工業学校の出火原因についてはかねてより広坂署で取り調べをすすめていたが漏電と確定した。
二度目の火災は終戦後の21年1月3日の夕刻、工業化学科準備室付近からの出火であった。工業化学科実験室など420坪を焼失する。正月中のことであり原因は不明。先の失火と合わせて920坪を焼失した責任を負って松沼校長は辞任し、後任に県から宮崎正雄体育官が校長事務取扱として着く。

廣辻 圭三 昭和15年~38年在職

明治36年福井県に生まれる。福井県立工業より京都高等工芸学校色染科を卒業。新潟県立三条商工学校・栃尾農商学校を経て昭和15年本校に着任。色染科科長として生徒の育成に努力した。田邊孝次18代校長によって附設された石川県傷痍軍人工業教育所の講師・舎監としても活躍した。

卒業生 金 永八(キムヨンパル) (韓国釜山市海雲台区在住)

金 永八氏は本校の色染科に在籍(在籍中は金山 永八(かなやまえいはち))する。戦乱の真っ只中、昭和20年3月15日、出征を志願していた金永八氏卒業式を目前にしながら北海道に出征する。3月28日、金氏不在のまま卒業式は挙行され、8月には終戦となる。金沢に立ち寄ることが出来ないまま帰国の途につき、卒業証書を手にすることが出来なかった。

日韓における複雑な国交情勢にあっても氏は母校のことは片時も忘れることはなかった。「母校は今どうなっているのか」氏は何度も母校宛に手紙を出してみるが返事は帰ってこない。昭和55年、氏の願いに答えたのが韓国KBSラジオ放送であった。最後の頼みの綱、自分の肉声で「私は元気です。母校の石川県工は今どうなっていますか。これを聞かれた方、お願いです連絡を取りたいのです」と呼びかけた。この放送を名古屋在住の本校OB(大口隆 昭和37年デザイン科卒)がキャッチした事で、長きに及ぶ氏の胸の痛みが瞬く間に解かれていった。 何とか連絡が取り合える社会情勢に変わりゆく中で、氏は日韓スポーツ交流の架け橋役を申し出られる。その並々ならぬ母校愛が昭和62年、創立百周年記念事業の一つ「日韓スポーツ交流」として実を結び、日韓交互に15回開催され、今では年間行事の一つとして定着している。(平成15年現在)交流試合はもとよりホームステイ先での心温まるもてなしなどを通し親睦を深めることで、日韓双方の生徒、学校関係者共々に「感謝と親しみ」の気持ちを顕わにする。2年前の学校祭で金氏の講演会が開かれたが、その中で「母校を忘れることは親の名を忘れことである」と話されたことが印象的であった。日韓スポーツ交流に生徒会・男子バレーボール・バドミントン・卓球・柔道・ハンドボール部等が参加している。15年間に及ぶ日韓スポーツ交流の架け橋役に徹された氏の功績に感謝を込め、平成15年、県工同窓会総会の席上で晴れて卒業証書授与式が執り行われ、58年目にして卒業証書を手にされた。氏は先に紹介した廣辻 圭三先生を尊敬されていた。

8.終戦と工業教育の復興

昭和18年に焼失された校舎は戦時中とあって復興どころか片付けられることさえなかった。
続いて21年の失火で面積では全体の3分の1を失うが、中枢である本館・講堂を失うことで学籍簿や重要美術参考品までも失い、卒業生に声すら掛けられないような状態であった。廃墟と化した学校と戦後の混乱の中で生徒達の向上心も薄れ、過去の名声を如何にして取り戻すか課題、難題も山積みされていた。

復興に向けて校長人選がなされ、昭和21年6月、羽野禎三が県教育課の懇請によって校長に就任する。県工百年史の第五章「産業の復興と本校の再建」で90ページにわたり記載されているところである。

8-1羽野 禎三20代校長に就任 昭和21年6月~34年3月在職 (大正10年図案絵画科卒)

復興に向けて校長人選がなされる。先の田邊校長人選と同じく、東京美術学校(東京芸大)に声がかかる。本校より美術学校に進学する生徒が多く、その生徒の学力低下は深刻な問題であり美術学校が対応するもやむなしというところだが、美術学校に復帰することなく命を落とされた田邊校長のこともありスムーズに事は進まなかったようである。

当時の北国毎日新聞は次のように報じている。

「校長空席40日、畑ちがいの県宮崎正雄体育官が事務取扱いとなっている石川県立工業学校の後任校長は、同校の特殊事情にかんがみ県では慎重な人選を期し、同校出身の現東京美術学校図案科助教授羽野禎三氏を推薦、近日発令されることになった。同校同窓会では美術工芸王国石川の揺籃という重要性から、その人選には同窓会の総意として2名候補者を推薦したが、羽野氏は候補者以外なので着任のあかつきには問題化するものとみられる」とあり、「校長空席40日」の間に羽野禎三は随分と悩み東京美術学校を後にした。

8-2校舎の復旧工事に着手

校長就任と同時に進めてきた校舎の復旧工事は昭和23年の夏をもって完了する。翌年10月15日、開校記念式と新築落成式を挙行する。これより10月15日を創立記念日と定め、今日に至っている。

8-3校訓制定

学力低下はこの時期の代表的な現象で再建上の難題であった。瓦礫の山に頭を抱え、殺伐とした生徒達の様に触れ胸を痛めた羽野校長は次の三項目の校訓を示した。

一、敬愛協和を尚ぼう     敬って親しみの気持ちを持ち、心を合わせて仲良くすること
一、創意工夫を凝そう     自分で新しいもの、良い方法をあれこれと考え出して行こう
一、矜持責任を有とう     自分の能力を信じ、誇りを持って引き受けた任を果たそう

これは動揺している本校教育のよりどころをつくろうという意味のものであった。よって戦時中の校訓のような強い拘束力をもつものではなく、生徒の日常心得の一つとして示されたものであった。石橋犀水氏の筆になる額装された校訓は応接室に掲げられた。

高度成長の中、この校訓はギャラリーに保管されたままであったが、近年、学校要覧などに掲載されるようになる。平成15年に就任した福島良治現校長は羽野禎三制定になるこの校訓を再表装し、校長室に展示するとともにロビーでも校訓を表示し、生徒手帳にも明記することにした。

 8-4工芸大家を講師として招聘

わが国一流の工芸大家を講師として招聘し陶芸、漆芸、染色分野をはじめ、それらに共通する図案、意匠、制作に至るレベル向上を図った。現在もデザイン科・工芸科において第一線で活躍される先生方を講師にお迎えし、ご尽力賜っている。

玉井 敬泉(本名 猪作)明治22年~昭和35年(71歳) 昭和22年~35年 在職

明治22年、金沢市に生まれる。明治40年、本校、図案絵画科を卒業する。農商務省東京工業試験場吏員となる。昭和22年~昭和35年、図案絵画科非常勤講師を勤める。大正3年、第8回文展初入選。大正8年、京都日本画無名展首席天賞受賞。その年に帰郷し六耀会の発足に参加。石川県工芸奨励会評議員・金城画壇会員を歴任。昭和35年、71歳で没す。

創立70周年記念寄贈作品(昭和32年)「渓間の雨」を所蔵する。落款の右に「昭和丁亥五月」と十乾十二支で記されている。よって昭和22年5月の作品となる。

中村 翠恒(本名 恒)明治36年~昭和60年(82歳) 昭和23年~35年 在職

明治36年、初代中村秋塘の2男として加賀市に生まれる。大正14年、石川県立工業学校窯業科を卒業する。後に、京都国立陶磁研究所に進み河村蜻山に学ぶ。昭和23年~昭和35年まで窯業科非常勤講師を務める。三代秋塘と襲名、後に、甥に譲り、以後翆恒を名乗る。

昭和3年、第9回帝展に初入選。昭和28年、日展で特選等数多くの受賞歴を持つ。石川県指定無形文化財九谷焼技術保存会初代会長・日展参与などを歴任し、昭和60年、82歳で逝去。

前 大峰(本名 得二)明治23年~昭和52年(86歳) 昭和26年~35年 在職

明治2年輪島市野町に生まれる。沈金師 橋本雪舟に師事し、かたわら牧一友に絵画、図案を学ぶ。昭和26年~35年、漆芸科非常勤講師を務める。沈金の「点描彫り」による立体的表現と「片切彫り」による筆意表現の一刀彫りの研究に成功する。低調だった沈金の向上に励み、芸術価値の高いものに引き上げた。昭和30年、重要無形文化財「沈金」保持者となる。
昭和52年6月、86歳で逝去。

平成11年に前大峰を父とする前 史雄(昭和34年窯業科卒)氏が重要無形文化財「沈金」保持者となる。2代続けて「沈金」部門の認定となった。

木村 雨山(本名 文二)明治24~昭和52年(86歳) 昭和23年~35年 在職

明治24年、金沢市に生まれる。加賀染の名工上村雲峰に師事し、南画家大西金陽に絵を学ぶ。
昭和23年~35年まで色染科の非常勤講師を務める。身の回りを飾らない静かな口調でありながら、生徒達から絶大な信頼を集めた。帝展、日展、日本伝統工芸で活躍。昭和30年、重要無形文化財「友禅」保持者となる。昭和52年、86歳で逝去。

8-5「1年延ばして創立60周年」 昭和22年10月30日

創立60周年記念式典は昭和21年に挙行されるべきものであったが、校舎がそのような状態であったため、1年繰り上げて昭和22年10月30日に記念式を挙行する。その後、110周年記念式典を執り行うまで、一年のズレを持ったまま挙行されてきた。来る120周年にそれを修正することになっている。

9.「石川県立金沢工芸高等学校」と改称  昭和23年4月

学制改革で高等学校に昇格し、昭和23年4月、石川県立金沢工芸高等学校と改称する。同年中学校を併設する。地域史の研究で昭和54年、主論文「北陸古代史の研究」で文学博士になった浅香年木は、この併設中学校から図案化課程に進み昭和27年に卒業する。

10.「石川県立工芸高等学校」と改称  昭和24年4月

昭和24年4月、昨年の改称に続き、慌ただしく石川県立工芸高等学校と改称する。校訓の制定を教育のよりどころとし、次に「納富精神」の復活を目指した。来る「創立70周年」に向けて準備を進めていくが、焼失したものが余りにも多く、歴史を語ろうにも事欠く有様であった。後に発刊される「70年史」は復興に向けて羽野校長が心血を注いだ集大成である。

10-1納富初代校長胸像再建と青木外吉寿像除幕式

納富初代校長の胸像は大正11(1922)年6月14日に設置されていたが、戦時中に供出され台座だけとなっていた。吉田三郎の原型をもとに再建することとなる。昭和27年5月10日の佳日をえらんで除幕式を挙げる。卒業生で初めて校長に就任した青木外吉胸像を新設することとなり原型を吉田三郎が、撰文は玉井敬泉の手になった。同日、青木外吉寿像除幕式も執り行われた。
昭和18年3月7日(日)(北国新聞)志士も上人も「県下に銅像供出の機運」とある。
寺院の梵鐘までが供出されるなか、本県の銅像を調査してみると70基が数えられている。その中に納富介次郎(石川工業)や前田斉泰公(兼六園内)が含まれ、いずれも供出される。日本武尊(兼六園内)も候補にあがっていたが難を逃れる。

写真-10 除幕式出席者、左より青木外吉15代校長、(調査中) 、羽野校長、(調査中) 、松田権六、納富胸像原型制作者吉田三郎である。

10-2「70周年」に向けて美術工芸作品の寄贈を募る (現在のギャラリー雪章に至るまで)

校舎が本多町に移ってから(明治34年)製品陳列場を充実させ、職員、生徒の研究意欲を高めてきたが2度の出火で失った。その資料の再生、納富精神の復活を願い、新たな校訓のもとで取り組む羽野校長。その取組の一つに作品の寄贈の呼びかけがあった。呼びかけに答え多くの作品が寄せられた。

昭和30年を前後して計画された「作品展示室や合宿設備を設けた同窓会館の設置」は思うように進まなかった。昭和38年の定時制創設と女子生徒の増加に伴い定時制の食堂設置と家庭調理実習室の設置が急務となるなかで昭和47年に委員会は1階が食堂、2階に調理実習室という計画を提示する。その計画に同窓会が以前から準備してきた同窓会館建設資金を加えて3階建ての案を示す。最終的にはこの案が受け入れられ3階を寄付採納することで昭和48年の秋に現在の特別棟が完成した。(当時は記念館と称す)この記念館の完成と共に田邊校長の願いで八日市屋氏より寄贈して頂いた武道館が現役を退くこととなる。ようやく28年目にして特別棟3階に所蔵作品が陳列されることとなり、昭和33年の設置課程改廃のなかで羽野校長在職中には果たせなかった「失った美術工芸品の充実」が実を結び、その70周年寄贈作品がギャラリーの品格を高めている。

その後、「100周年記念寄贈作品」が加わり、同窓会寄贈フロアーに展示ケースが増設され、所蔵作品数は300点を超えることとなった。それを期に所蔵作品図録集を発刊し、展示室は「ギャラリー雪章」と命名された。

10-3「創立70周年史発刊」消えた歴史の復活

消えた歴史の復活ということは決して過言ではなく、また、これこそが歴史をまとめて伝える最後のチャンスであった。特に創立当時を語るかのように書かれた寄稿者の最年長者が90歳に近いからである。この記念誌編纂を含めた記念事業の展開に向けて奔走していった。

本校に縁があり、各界で活躍された方を「県工70年史より」として、当時の状況をふまえて紹介されていることからして、その価値の高さは伺い知れる。

次に上げる写真-10、11、14、15、17は、羽野20代校長、ご子息の提供により、複製を許可されたものである。写真-14、15、は昭和30頃の同窓会会場と思われる。

写真-14 板谷波山作「少年少女像」を手にして板谷波山を紹介する羽野校長。
写真-15 板谷波山を囲んでの同窓会。前列、左より2人目が吉田三郎、4人目が板谷波山、5人目が羽野校長、6人目が玉井敬泉、右端が松田権六である。

10-4北国文化賞の受賞 昭和32年11月3日

昭和32年11月3日、文化の日に本校は北国文化賞を受けた。10月28日、北国新聞社説に受賞理由が掲載される。「我々は、今年の受賞団体に「石川県立工芸高等学校」の名をみることができた。従来の受賞団体に比べて、やや異色のある団体である。同校はきたる11月6日に開校70周年迎えるという日本最古の「工業学校」である。この間、当地方の美術、工芸、産業界の発展におよぼした影響は実に大きく、人材は雲のごとく輩出して日本の美術工芸界に活躍し、産業界に貢献した。「工芸美術石川」という名を築き上げた素地は同校にあり、同校に教え、同校に学んだ多くの人々の“伝統”の力は高く評価されていいはずだ。我々は同校に、かつ現在学んでいる若き世代の未来にかけて「北国文化賞」を贈ることを、よろこびとする」とあり、本校の伝統が高く評価された。

70年史は発刊準備がすでに整っていたので、この喜びの受賞は正誤表と同じく差し込まれて各方面に配布された。

10-5「創立70周年記念式」を挙行 昭和32(1957)年10月15日~11月8日

記念事業は10月15日の記念運動会に始まり旧職員及び同窓生物故者慰霊法要を東別院で行い、記念展覧会まで盛大に挙行された。

記念式典は各方面から祝辞を頂き、今回改訂された校歌を斉唱して幕を閉じた。実習公開・作品展示即売は3日間にわたり開催され、展示された生徒作品は高く評価された。一部は即売され好評を得た。

表-2「70周年」記念行事一覧
行事内容 日  時 場 所
記念運動会 10月15日 午前9時より 本校校庭
記念式 11月6日 午前10時より 本校
物故者慰霊法要 11月7日 午前10時より 東別院
記念音楽会 11月5日 午前9時より 本校体育館
記念展覧会 11月6~8日午前9時~午後4時半 本校
実習公開・作品展示即売 11月6~8日午前9時~午後4時半 各実習場

10-6羽野禎三苦渋の決断 (昭和33年の設置課程改廃に向けて)

 このように節目の大事業を遂行していくなかで、学科の新設、統合の検討が同時進行していった。しかも「高校整備七ヶ年計画」のなかで、伝統の「工芸」を守りとうして校舎改築を見送るか、工芸を捨てて校舎改築の優先順位を得るか二者択一を求められる。高校整備七ヶ年計画について「石川県の実業高校の代表格である県工を、まず時流にあった工業中心の内容にしたかった。あの改革がないくらいなら、それほど県工の校舎改築に熱を入れなかっただろう」と、当時の中谷久弥教育長が後に語った。まさにこの時期、羽野禎三苦渋の決断をせままれていた。

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