兼六園校舎で1回、本多町で4回の改称

ギャラリー雪章運営委員
濱岸 勝義

1.はじめに

明治に入り藩政時代に栄えた石川県の伝統産業である九谷焼、輪島塗、山中漆器、加賀友禅などが衰え始める。廃藩とともに衰えたとも、廃藩で技術者育成を怠ったことと資本力の問題などと絡めて話されるが、何れにしろこまねいていたわけではない。

県が取った一つの策として技術指導のために納富介次郎を何度か招いているといったことは前回の研究紀要(Vol26.2002)で取り上げたが、当然ながら地元有志も復活にかけて様々な策を講じていく。そのなかで、納富介次郎巡回指導技師(農商務省)を本県に引き止めたい県側は私立画学校の設立運動の盛り上がりのなかで画学校の設立話などで納富の気を引こうとする。納富はその画学校設立は良い話と答えながら、欧米で学び技術者を育てる学校の必要性を感じていたので区会議員を説得、県の持ちかけ話は数ヶ月後に様相を一転する。明治20年7月、金沢区工業学校として工業学校が開校するのである。その後、表-1のように改称5回目にして今の石川県立工業高等学校と称されるようになった。

  表-1
金沢区工業学校として創立 明治20年(1887)7月~明治22年(1889)3月
石川県工業学校と改称 明治22年(1889)4月~明治34年(1901)5月
石川県立工業学校と改称 明治34年(1901)5月2日~昭和23年(1948)3月
石川県立金沢工芸高等学校と改称 昭和23年(1948)4月~昭和24年(1949)3月
石川県立工芸高等学校と改称 昭和24年(1949)4月~昭和33年(1958)3月
石川県立工業高等学校と改称 昭和33年(1958)4月~現在に至る
 その間に社会情勢の変化と共に支障をきたしていく学校運営。それを克服せんと練られる対応策と本校の発展に寄与された方々を改称時を節目にして紹介したい。また、公表をこばまれていた関係者より許可を得られた資料などをめて紹介する。

2.低迷する特産工芸品とその対応策

 ここで維新以降、本校創立以前までに何度と無く低迷する特産工芸品を繁栄に導くために採られた様々な対応策を取り上げたい。

2-1納富介次郎に委ねる(巡回指導技師として2度)

ウィーン万国博覧会が開催された明治6年に金沢区方勧業場、(後の石川県勧業試験場)に製陶工場を設け金沢の九谷焼の発展を図る。同年3月、ウィーン博覧会に金沢から納富介次郎と円中孫平が渡欧するとあり、前年に納富介次郎が来県しウィーン万国博覧会に石川県より出品するための指導があったと思われる。明治9年、円中孫平がフィラデルフィア博覧会に石川の物産品を出品するため渡米、いずれも一等賞牌を得る。さらに、ニューヨークでローム商会より生糸の注文を大量に受ける。これは日本生糸が米国に輸出される最初と言われる。この成果の背景には全国に各地で繰り広げられた納富を中心とする指導があった。よって国内の美術工芸において改革が成され、質が向上した。しかしながら年代が代わって明治23年のシカゴ万博催地で好評をるが、外国人好みとはいえ伝統を模倣した粗雑な物が出回りはじめ、また下降し始める。納富の嘆くところで本県においても同じく上昇下降を何故か繰り返していったことを追記しておきたい。

明治9年12月4日、金沢区方勧業場を県営に移し石川県勧業試験場に改める。明治13年には石川県勧業試験場を県立にするなどして特産産業の保護育成につとめる。

明治13年10月、県内教育の普及発展をはかることを目的に金沢教育社が設立される。事務所を東本願寺別院に置き、雑誌を発刊し演説会を開くなどした。14年2月、後に本校2代校長となる内山行貫が社長に、副社長に同じく本校3代校長となる沼田悟郎が選出された。15年に金沢教育社は解散し金沢教育会が設立された。

明治15年(4月~9月)石川県から陶器、銅器、漆器の改善を依託されて来県した納富が目にしたのは、同業者間における互いの敵視のもと、わずかな利益を奪い合い、粗製濫造の弊害をまねいている現状であった。この悪循環から脱するための策として団結利得の具体策として「組合組織」の方法を指示した。後に農商務省からでる組合準則はこの組合制を基礎として制定された。

次いで19年に巡回指導技師として着任(4~10月)。その指導内容は指導技師の域をはるかに超えるもので、着任と同時に「支那への工芸輸出貿易」を国策として進めることを提案する。この案の実現にそなえて息子の磐一や教え子の島田佳矣などに支那語の勉強を既にさせていた。 この提案は、金沢の資産家や実業家には高く評価され、大きく進展するかに見えたが、むなしくも県議会で否決されてしまう。

何度と無く納富に関して書物を紐解くが、明治6年にウィンに渡る納富が何故に石川県代表としてなのか、また、工業教育発展に身を投じていくなかで本県出身者が共に活動するなど、納富と本県との親密な関係が未だに解けていない。

円中 孫平は金沢実業界の先覚者と称される。維新前は五宝町40番地で笠商を、明治に入り金沢で製糸、銅器をはじめ各種企業に携わり海外貿易にも進出する。納富と共に県を代表しウィーン万国博覧会のため渡欧。フィラデルフィア博覧会でも手腕を発揮する。片町郵便局長なども務め、明治43年7月5日、81歳で逝去。

2-2伝統美術復興の動きと私立画学校の設立運動

明治18年5月10日、日の出新聞(京都)は北越より帰来人の談として「石川県の疲弊困窮は実に名状すべかざるものあり、輪島の漆器、九谷陶器などの工芸品は全然さばけず金沢の人口95,000人の十分の一は其の日の暮らしにも差しつかえる貧民なり、近来乞食の数を増し毎朝群をなし横行、其の惨状見るに忍びず」と報じている。そのような中で私立画学校の設立に向けた動きがみられる。明治18(1885)年、成巽閣の隣に設けられていた石川県勧業博物館内に蓮池会と同行者の集まりで絵画研究会が設けられる。フェノロサ・岡倉天心らの伝統美術復興の動きによるもので、絵画を盛んにして石川県の特産工芸品の改良を進めようと考えていた。県の殖産課に務めていた宮崎豊治と絵画研究会や蓮池会が中心となって私立画学校の創立をはかる。

この運動が実り「画学校の創立もやむなし」と県側は考えようになる。「やむなく」としたのは工業教育に対する理解の乏しさと苦しい財政のなかで、明治19年に納富(3度目の来県)の指導を受け、遺憾なく手腕を発揮する介次郎を本県に引き止めたいという策略との絡みを隠せないからである。

2-3宮崎豊治について

弘化元年金沢で生まれる。明治維新後、金沢区吏となる。かねて「維新に際して我が藩人は薩長土肥に先んじられたが、これからの日本を発展させるのは本県人である」と主張していた。明治6年、維新政府で北海道平定の功により参議兼開拓長官となった黒田清隆(後の2代内閣総理大臣)の賛助を得て、同年5月北海道樺太を視察。将来石川県人による拓殖に適していると「北海道紀行」(7年6月林顕三編6冊刊行)に著して宣伝したが本県人の消極的な気風から同調されることはなかった。この失敗をもとに今度は県内の産業を振興し、ひいては日本の産業を発展させる源とするために県勧業課の吏員として歴代の長官、課長を助け、一吏員ではあったが美術工芸の奨励、発展に力を入れる。明治23年登用せられて勧業課長となり、同27年大阪附属に転ずることとなる。ここに工芸の先進県と目されるに至ったのは20年間に及ぶ豊治の画策勧業方針策によるものである。明治27年12月11日京都府に転出する。金沢区工業学校として開校し、2年後の明治24年4月にようやく経費地方税支弁となり、県立移管へと進展する。創立はもとより、これらについても豊治が力を尽くしている。

3.「金沢区工業学校の創立」実を結んだ私立画学校の設立運動

私立画学校の設立運動の趣旨と県側の納富を本県に引き止めたいという思惑により、金沢区にすすめて画学校を創立させることとなった。納富が考える学校とは「学理を講究してこれを応用する技術者を教育する工業学校」であった。納富は区会議員の啓蒙に全力を振るった。  金沢区に(明治)20年度予算総額2,484円をもって金沢区工業学校の創設を可決させた。この学校は金沢区を中心とする石川県産業発展の中堅となるべき重みのあるものとなった。

3-1金沢区工業学校開校 明治20(1887)年7月(日付は未だ不明)

金沢区工業学校は明治20(1887)年7月、成巽閣の隣に設けられていた石川県勧業博物館の一部を校舎として創立された。この勧業博物館はわが国最初の博物館として明治9年に創立されたもので、産業の各分野にわたる陳列品2万4千余点を18区に分類・展観されていた。別に図書室があって9万冊の蔵書があった。

間借りのようであったが、同年9月には金沢学校が閉校になるので、ここに仮校舎を移転することになっていた。開校式については予算不足のため納富初代校長の考えで次年度に引き延ばそうとした。ところが文部大臣森有礼が第四高等中学校開校式に来県したのがきっかけになり、10月26日午後1時より成巽閣で開校式を挙行することとなった。

同年11月、予定にしたがって移転を行い正式の校舎とした。しかしながら工業学校としては手狭なため12月に色染科染教室・理化学教室として平屋建17坪余りを、さらに染教室・描金教室(実験実習を主)として2階建て42坪を増築した。これにより校地を200坪拡張することとなったが、それでも充分とは言えなかった。

3-2開校当時の教職員

開校当時の教員を紹介するドクトル・ゴットフリート・ワグネルに師事したされた方も含まれている。

高橋 富兄 (梅園、古学舎と号す)明治20年~23年在職(国文学、書道)

文政8年金沢に生まれる。幼くして明倫堂に入り、明倫堂国学主講師となる。本校開校時から教師として国文学等を担当する。その後、明治26年9月15日、第四高等学校教授に任官する。
大正3年、90歳で逝去。

相川 豊男 (松濤と号す)明治20年~23年在職(彫刻)

安政6年金沢に生まれる。9歳の時、明倫堂に入り漢学を習い、併せて剣道をも習う。幼少より彫刻を好み、その才能が認められて高村光雲の指導を受ける。本校開校時から教師として彫刻を担当する。昭和5年、逝去。

諏訪 蘇山 明治20年~29年在職(彫刻)

嘉永4年5月25日金沢市馬場6番町に父藩士諏訪重左衛門好方。母ていの子として生まれる。明治20年石川県立工業学校彫刻科助教諭として奉職する。

初代校長納富介次郎と同じく、ワグネルに陶画(陶芸一般)を学んでいる。九谷焼の彫刻が得意で、本校所蔵の「葡萄透し花瓶」は展覧会に出品するために2点焼かれた。石川県立工業高等学校に1点、もう1点は輪島の南惣家が所蔵している。

明治30年、京都錦光山製陶工場に招かれ京都にわたる。その後、五条坂で自営する。中国古代の青磁、白高麗を模することも得意で、余技として漆器も制作した。大正11年、72才で逝去。

友田 安清 明治20年~26年在職(陶画科主任教諭)

文久2年金沢に生まれる。明治14年より自家営業し、陶画の巧手として知られる。納富やワグネルに陶磁器製造、顔料調整の指導を受けている。本校創立時から陶画科主任教諭を務め、明治24年、研究中の顔料製造の成功を機に顔料製造会社「友田組」を創設する。

当時、陶画顔料の一部を外国製の顔料に頼っていたが、友田顔料が輸入に頼ることなく安定供給の道を開いた功績は大きい。友田の白盛が有名で、大正中期に九谷焼の画風に青粒(あおちぶ)が加わるが、その画風誕生にも一役買っている。昭和期の友田組の工場は本多町にあった。

鈴木 惣太郎(華邨と号す)明治22年~26年在職(絵画、図案意匠)

文延元年、東京に生まれる。16歳で中島亨斎の門弟となる。納富校長の招きで明治22年から絵画、図案意匠を中心に教鞭を執る。明治26年10月31日に辞任(納富辞表提出の10日前)し帰京。華邨は明治4年に横浜で洋画を学んだ納富にその教えを受けていて、かなり親密であったと思われる。

村上 九郎作(鉄堂と号す)明治23年~26年在職(木彫工芸)

慶応3年、小松市京町の彫り師の家にまれる。号を鉄堂と称し、明治20年、第2回勧業博覧会に出品した作品の技量が認められ、明治23年~26年まで本校彫刻科の教師を務める。14,5歳のころには快心の作を彫りだしていたという。彼の作品は県内に殆どのこっていない。小松市本折日吉神社幣殿に猿を彫った物が有るという。明治26年に渡米し、その翌年、高岡工芸学校が創立され、校長の任に付いていた納富に招かれる。納富は体が弱かったため村上は校長心得として就任。十数年にわたり富山の美術工芸に尽くした。大正8年、52歳で逝去。

石川県勧業博物館 明治7年7月31日創設

明治7年6月1日から30日間「金沢博覧会」が開催され、一日平均2,421人の入場者があった。その後、明治9年、木谷籐十郎らは博覧会社を組織し、わが国初の博物館を成巽閣とフォン・デッケン居館跡に開設する。明治9年4月から常設博物館となる。

デッケンはドイツ、プロシア生まれで明治4年に鉱山学校教師として来沢した。デッケン居館は兼六園山崎山の下に新築された洋館(明治4年1月完成)で、成巽閣とは眼鏡橋で結ばれていた。明治13年、県立に移され石川県勧業博物館と称した。

金沢学校とは、13代加賀藩(主)前藩主前田斉泰(明治17年1月16日死去。享年74歳)の保護のもとに、明治11年、加越能三州青年の育英のための「育英会」が設けられ、明治17年7月から3カ年の予定で設立した陸海軍志望者の予備校であった。初めに広坂通りに開校し、同年9月に兼六園内の新築校舎に移る。明治20年9月には予定の3カ年に達したため、学校を閉鎖して石川県に寄付した。この金沢学校跡が金沢区工業学校の本校舎となった。

明治34年、本多町に校舎を移すが、その講堂の入り口正面背後に前田斉泰の書になる「金沢学校」という額が掲げられていた。残念なことに昭和18年の火災で焼失する。

納富 介次郎初代校長 明治20年7月~26年11月10日(24年4月とされてきた任期を改正)

現在の石川県立工業高等学校は納富介次郎の識見によって日本の中等工業教育に10年は先んじて創立されたものである。よって世に例が無く、石川県の世論が学校を強く支持したわけでもなく、県当局の態度も先に述べた由来から考えられるように、きわめて冷淡なものであった。したがって維持経営は苦難に満ち、また、新たに教育者自体を育て上げることも必要であり、それら全てが納富にかかるので想像以上のものであった。開校間もなくして「廃止説・経費減額」が予算議会で公然と論議され、学校教育の本質が何も理解されていなかった。納富はこの状況を打破するために第3回内国勧業博覧会に優秀な製品を出品することで世論に訴えようと、寝食を忘れてその指導に努めた。が、元来体の弱い納富は明治23年、肋膜炎で倒れる。これが校長解任へ拍車をかけ、先駆者の多くがたどったように不遇のうちに帰京の途に付く。明治26年11月10日、県に対し正式に辞表を出した。(本校開校時に発揮した知略や納富の歩んだ工業教育については前回の紀要でまとめた。詳しくはそれらを参照にして頂きたい)

 4.「石川県工業学校」と改称

 明治22年(1889)4月、県立中等学校に昇格。経費地方税支弁となり、校名を「石川県工業学校」と改称する。
 明治23年京都から刺繍教師を招いて、女子高等授産所を設ける。これが金沢における刺繍のはじめといわれる。
寄宿舎 明治24年に寄宿舎が創設される。金沢市内に住む生徒以外は原則として入舎することになっていた。同43年までに仮寄宿舎を9回にわたって移転している。
明治27年10月12日製陶科を新設する。

4-1兼務校長時代

2代校長内山行貫以後は長くて2年、3ヶ月余りの校長が名を連ねている。殆どが県の役人で兼務したものも多い。この時代の前半が本校の最も不振の時代で、廃校論までがとなえられる有様であった。この時、納富校長に対し、教務長より教諭へ、さらに教諭委託へと格下げを行う。

内山 行貫2代校長に就任 明治24年2月~25年3月

明治24年2月、内山行貫が2代校長に就任する。

明治13年10月、金沢教育社が設立されるが、14年2月、社長に選出された。 明治18年、私立金沢幼稚園を広坂通に創設する。(県内初)

明治23年共立尋常中学校が文部省の許可学校となり大谷尋常中学校仮称し、今川覚神に次いで校長となる。明治24年2月~25年3月まで2代校長を務める。

明治36年1月15日、岩手県で視学官の任に付いていたが、部下の中から(鈴木直三郎等)教科書事件関係者を出したことを悲観し最上川に身を投じた。享年55歳。

沼田 悟郎3代校長に就任 明治25年4月~27年2月末 在職

内山行貫と同じく金沢教育社で活動。副社長を務める。明治23年京都から刺繍教師を招いて、女子高等授産所を設ける。これが金沢における刺繍のはじめといわれる。

籠田 信次4代校長に就任 明治27年3月~27年6月末 在職

明治27年10月12日製陶科を新設する。

加藤 鏆二5代校長に就任 明治27年7月~27年12月 在職
籠田 信次6代校長に就任 明治27年12月~28年2月 (兼務)
掛飛 秀7代校長に就任 明治28年3月~28年2月 在職
梅田 九栄について

明治24年10月2日、市に初めて学務員4人が置かれた。神田正中、藤田真一、森川清五郎が市会に梅田は教員としてであった。

山本 光一について

明治27年6月10日 石川県工業学校、山本光一に銅器図案を委託(金沢の百年)

「金沢市が主要物産の陶銅漆器に新案創意の意匠を生み出し販路を拡張するため、石川県工業学校の山本光一に図案数十種類を描くことを委託する。図案は市が保存して業者に貸与されることになる。」とある。

山本 光一 は絵画科教諭(職名、勤務期間不明)と記されるものがある。

4-2工業教育の育成に目覚めた県 (優れた人材の招聘)

納富初代校長は学校創立に携わった辛苦と実業教員の指導監督などで、その疲労はかなりのもであった。明治23年、生来病弱であった介次郎は肋膜炎におそわれ、瀕死の状態におちいった。同年、父花守没す。国内情勢と言えば、政治的にも文化的にも不安と動揺が激しく、学校行政もその渦中にあった。病弱であることを理由に納富を追放しようとする動きがおこる。それは校長から教務長への降格から始まり、果ては教諭にされてしまう。介次郎門下の教員も免職となっていった。ついに介次郎は教授依託にまで降格され、明治25年の冬に病気療養の名目で教授依託のまま東京に帰えることとなる。介次郎はこの頃を「自分の半生中で最も不愉快な時期であった」と言っているが、工業教育現場は正にこのような状態であった。しかしながら変化する社会情勢のなかで県側の考え(認識)は変化していく。ここで北国新聞掲載記事2件を上げる。

明治26年8月16日 「納富氏の意見書」

「石川県工業学校教諭納富介次郎氏より文部大臣へ呈すべき実業教育の意見書はすでに其の稿を脱したれば是より清書に取り掛かると云ふ聞く、氏は実業教育に於いて一つの新案を得たりと。」
また、時を同じくして東京工業学校助教諭平塚弥太郎氏来沢機とし、本市内実業家は同氏に請ふて昨日(8月14日)午前9時30分より勧業博物館に於いて一席の談話会を開き来会者60余名にて「美術と工芸品の関係」について談話する。午前11時散会せりと云う。(平塚氏は夙に絵画の道に造詣(ぞうけい)するところありて常に美術工芸上の考案図に心を潜め勉強家なり)

納富のいう「実業教育新案」とは如何なるものだったのか確認できていないが、先の記事からすると実業界の考え方も変化し、本県の躍進を石川県工業学校に託すようになる。まずは有能な教師達を招き入れる。また、教育史によると明治27年11月16日「石川県工業学校規則」が改定される。とある。次に挙げる7名の殆どは兼六園校舎に赴任し、校舎移転準備に携わりながら教鞭を執り、本多町校舎で移転の成果を発揮して金沢を後にしている。ここに日本最強の教師陣が揃うのである。

関 保之助

明治26年8月23日(北国新聞) 「工業学校教諭の任命」

「東京府士族 関保之助氏は昨日石川県工業学校教諭に任ぜられたり同氏は客月東京美術学校を卒業せし人なりと云う」がある。

白井 保次郎 (雨山と号す)

明治26年9月8日(北国新聞)  「工業学校教諭の任免」

「石川県工業学校助教諭村上九郎作氏は翌日願いに依って本官を免ぜられ白井保次郎氏は同日同校教諭(月捧金35円)に任ぜられたり因みに記す村上氏は彫刻に最も名を得たる人にして白井氏は美術学校の彫刻科を卒業したる人なり」

竹内 吟秋 1831~1913(82歳) 明治27年~40年在職

天保2年 加賀市に生まれる。(初名 源三郎)嘉永3年竹内家を継ぐ。明治12年、維新舎を設立して陶画工の養成にあたる。後に、九谷陶器会社の総支配人兼陶工部長となる。シカゴ世界博覧会に平鉢を出品し、名声を博した翌年の明治27年に本校陶磁科教諭として奉職。明治40年まで教鞭を執り、九谷焼の発展に尽くした。大正2年、82歳で逝去。(最初に飯田屋八郎右衛門に赤絵を学んでいる)

板谷 波山 明治29年9月~36年8月在職

幼少の頃より陶芸の道に進みたかった。東京美術学校に進学。陶芸に関する科が設けられていなかったので彫刻科に進んだ。明治29年9月、波山24才の時、白井雨山の勧めで彫刻科教諭として赴任する。

明治31年3月、彫刻科が廃科となるが、陶磁科の担当を進められる。教鞭を執る傍ら作陶研究に没頭する。明治34年11月、「大日本図案協会」が設立され、設立正会員となる。明治36年8月、石川県立工業学校窯業科を辞職する。(明治32年に陶磁科が窯業科に改称している)

北村 弥一郎 明治30年~34年在職

明治元年、金沢に生まれる。工学博士(硬質陶器、磁器)である。本校在職は明治30年から34年と短い期間であったが、竹内吟秋、板谷波山、久保田米遷らと窯業科で教鞭を執っていた。

日本初の結晶釉を完成(焼成)させたことでも知られるが、これらは本校在任中のことである。その作品は如何なる物かというと。

窯業関連誌の文面「共進会報告」より
世評一束(項目)
工業学校出品の「結晶釉花瓶」是は同校教諭北村弥一郎氏が苦心の結果発明した物である。元来西洋における結晶釉の形状は雪花の如くパッと開いたものなれど、北村氏の結晶形は圓形にして渦巻きをなし自から別趣の風致に富んで居る。(中略)斬新の釉薬にして第一の呼び物なり。また、宮内省御用品(項目)という項目では

明治34年9月11日 御下賜金を忝うせし次第は(中略)出品者の最も光栄とする所たり。

「結晶釉花瓶・白磁児童置物」 石川県立工業学校(中略)とある。
以上の事からして、本多町への校舎移転に伴い新たに窯を築き上げた明治34年に「結晶釉の調合・焼成曲線」を完成させたことが明確となる。当然ながらその窯は北村の設計である。少しの誤りであっても、必ず再試験を行って次に進む厳格さから生まれた。結晶釉の研究成果は、後に多くの陶芸家たちに影響を与えていった。

久保田 米僊(べいせん) 嘉永5年~明治39年1852~1906(54歳) 明治30年~明治31年 図案絵画科教諭

嘉永5年、京都に生まれる(本名 寛)。明治30年9月24日、久田校長と共に教諭に任命される。翌年の11月30日に辞任する。後任に山田敬中が着任となる。交友会を発足するにあたり母胎となった図案部に席を置いた米僊の役割は大きかった。わずか一年余りの在職とされているが、明治24年6月に久保田米遷著になる小学校4年生を対象に編纂された「小学校図画帖」が安江町の近田太三郎から刊行されなど、金沢はもとより納富や鈴木華邨らとの繋がりの深さがみられる。

米僊は鈴木百年に日本画を学び、後の一派をなした。平生旅行を好み、アメリカ・フランス・中国に遊び、日清戦争に従軍して戦況を描いた。明治29年・31年、日本絵画協会絵画共進会で一等褒状受賞。明治31年、京都美術協会を創立し創立幹事となる。

明治33年頃不幸にも失明し、39年に没した。代表作に「半偈捨身図」「牡丹と猫」等がある。非常な豪酒家であった。金沢の料亭「北間楼」で会合があった時、ハンカチに墨を含ませ金屏風に獅子を画いたが、酔っていても頗る傑作で珍重された。

山田 忠蔵(敬中と号す)慶応4年~昭和9年1868~1934 明治31年~明治40年図案科教諭

明治元年、東京浅草で生まれる。月岡芳年・川端玉章に学び、早くから俊才とうたわれた。明治29年、東京美術学校日本画助教授となったが、翌年岡倉天心校長等と共に総辞職し、日本美術院の創立に参画した。明治31年、久保田米僊の後任として本校図案絵画科(図按)に赴任し、明治40年3月30日、辞任する。9年間の在任であった。同年帰京、本格的な作画生活に入る。大正2年、川端玉章の死後、川端学校の教授となった。

写生風の山水画が得意で、文展・帝展に出品し、しばしば受賞した。大正10年、無鑑査に推薦され、後に審査員として活躍した。昭和9年、66歳で逝去。代表作に「朝露」「妙音」「華の蜜」等がある。少々小柄で、眉毛が濃く怖い顔つきに見えたが、温厚な人であり、また、大変煙草好きで話をすると、しばらくで火鉢の周りに3列位とぐろをまいたという。本校へ赴任するに際し、久保田米僊の後任であるので、岡倉天心らがその選考ににあたった。多数の候補者の中から最後に下村観山と敬中が残り、遂に決しかねてジャンケンで決定し、新橋駅より岡倉天心はじめ大勢の万歳の声に送られて赴いたという。

写真-1、前列右端が板谷波山、前列中央が山田敬中。

明治32年5月30日 (北国新聞)
京都で開催中の「第二回全国絵画共進会」褒賞授与式が行われ、三等を山田敬中が、四等を久保田米僊・石野香南が受賞する。

明治33年1月14日 (北国新聞)
山田敬中、中浜松香、岸浪柳渓、大西金陽らの揮毫会が金沢金城楼で開かれる。

4-3美術学校との太いパイプ

本校は東京美術学校(現東京芸大)より一足早く創立されていて、美術学校とは情報・人材・技術面で太いパイプで繋がっていた。先に挙げた教師達の繋がりでいうならば、白井保次郎が美術学校より本校に着任し、迷っていた板谷波山に対し石川の工業学校が良いのではとアドバイスしている。久保田米僊も美術学校から赴任するが、山田忠蔵との引き継ぎ劇があったにしても本校発展に寄与し、名声を高められた。さらに、昭和期に入ると東京美術学校に関係した校長が5代にわたり連続して就任している。「6.昭和に入る」で、そのつながりの強さを紹介したい。

梅田 五月8代校長に就任 明治29年3月~30年2月(1月末)在職

明治30年、英照皇太后崩御の翌日1月11日、兼六園内の料亭で新年会を開くが、酔歌乱舞となり警察沙汰となったことで市民の避難を受ける。校長は懲戒免職、列席職員は謹慎の処分となる。産業功労者と称されながら明治45年5月23日、78歳で逝去。

安原 時太郎9代校長に就任 明治30年2月~30年9月(8月末)在職

明治26年9月3日(北国新聞) 「県税決算調査委員の任命」
「石川県参事官戸田恒太郎氏は明治25年度県税決算委員長を同県属、三好亘、中川長吉、籠田信次、安原時太郎、・・・・が昨日命ぜられたり」があり、籠田、安原両氏とも教育職畑というよりは県職員としての活躍が多い。

 4-4兼六園校舎から本多町へ校舎移転計画

明治32年3月9日(北国新聞)石川県工業学校が中本多町に建設が確定する。敷地6,800坪。と正式に報じられる。これは2月の議会で決定したもので3カ年計画であった。

久田 督(孝太郎)10代校長に就任 明治30年9月~32年7月 在職

金沢出身。七尾語学所の後は、中学東校小学所の訓蒙を命じられた。明治7年長崎英語学校に入学、翌年東京外国語学校に転じた後、更に開成学校予科から東大理学部に進む、明治14年化学科を主席で卒業、農商務省官吏の道を約束されていたが、父親の事業の失敗により教職の道を歩む。福井尋常中学校、三重県尋常中学校の校長を務めた後に本校校長となる。明治32年、石川県第一中学校(現県立金沢泉丘高校)の校長に転じたが、在職中の明治44年逝去。(1858~1911)

明治33年1月9日 久田督について(北国新聞)

勧業博物館内の図書室は廃藩置県の際に加賀藩明倫堂の蔵書を引き継ぎ、和漢の珍書を多数所蔵しているが、図書室が世間に知られず、県の新図書購入費もない。そのため久田督館長は各県の図書出版会社、書店に図書寄贈を依頼する。各地より多くの図書が集まり、新旧書合わせて豊富になった。

土井 助三郎11代校長に就任 明治32年9月~36年1月 在職  慶応3年~不明(1867~不明)

明治20年、帝国大学工科大学応用化学科を卒業する。東京職工学校・山口高等中学校を経て明治32年に11代校長に就任した。

県工百年史に「土井助三郎校長は人格極めて円満で、いつも笑顔を含み温かみと親しみが深く職員・学生は心から敬服していた。また、学校と民間工業の接触につとめ、工業発展に尽くした功績は大きい」と記されている。

民間工業の接触と記されているが、これは民間からの技術支援要請に応えていたことで、学校が利益を上げているのではと噂されるほどの熱心な対応と解釈したい。本校を退職した明治36年よりイギリス、ドイツ、アメリカ合衆国へ留学する。帰国後、名古屋高等工業学校(現名古屋工業大学)の初代校長として創立、整備に尽力した。

5.校舎移転完了、「石川県立工業学校」と改称

明治34年5月2日、石川県工業学校を石川県立工業学校と改称。同時に石川県農学校も石川県立農学校と改称される。

同年6月24日、中本多町に新築中の校舎が大半完成し、部分的に移転を開始する。12月11日、勧業博物館の図案部が本校に移(移管)される。

5-1制服、校章、校旗の制定

明治34年校舎移転後に制服、校章、校旗が順次制定されていった。
制服は校舎を本多町に移し、石川県立工業学校と改称した明治34年頃に変わったとある。筒袖はかまにほう歯のあしだから、制服・制帽・靴ばきに変わる。夏服はしもふり・小倉地、冬は黒の小倉地、またはラシャ地であったらしい。大正期末まで続いていると思われる。

校章は明治35年に山田敬中、加藤一郎両教諭の合作・考案になるもので、雪を図案科したもので「雪花」とも「雪章」ともいわれた。ここに今も用いる雪章が誕生した。
校旗は明治38年に作られた。かなり大きなものだったようで、後に、小振りの代旗を作るが火災で焼失している。

新築落成式について

明治35年10月30日、明治32年から3カ年継続事業で行われた校舎移転が完了し、新築落成式を挙行する。

明治37年4月30日(政教) 「ルイジアナ購買記念万国博覧会」
12月1日までアメリカのセントルイスで開催のルイジアナ購買記念万国博覧会で最高金牌を鶴田和三郎、金牌を石川県立工業学校、山田長三郎(宗美)、相川豊男、河井一政、らが受賞する。

久田 督12代校長に再就任 明治36年(1月か2月)~36年4月 在職
 二度目の校長就任。「明治36年1月15日一中校長心得となる」があり、これは兼務か。
志竹 岩一郎13代校長に就任 明治36年4月~大正5年4月 在職

東京帝国大学工科大学理化学科卒業。引き続き理化学教室で研究を続け、その後、山口県化学工場技師長となる。時代の尖端(先端)をきる産業であったが時期尚早のため世に入れられず職を辞す。京都工芸学校で教鞭を執ることとなる。明治36年、本校13代校長に就任。英語も担当するが、その英語は日本人ばなれしていて訓辞の口調が英語がかっていた。大正5年の退職まで校舎の整備や設備充実を図るなど、長きにわたり校長の職務を果たす。いつも毛皮のチョッキを着用し、おしだしの立派な貫禄のある人であった。晩年は東京実業界で活躍した。

5-2創立25周年を迎える 明治44年10月30日、記念祝賀式

10月30日、記念祝賀式を挙行する。その全容をまとめて、同年12月23日に校友会より第16号「創立25年記念」が発行される。昭和62年10月15日、創立100周年記念事業で復刻された。

5-3校歌の制定

校歌は時代の流れと共に歌詞が代わっていくので、今日歌われている校歌に至るまでをここで一括してまとめたい。

初代校歌
明治44(1911)年5月、創立25周年を記念して校歌を制定することとなる。青木外吉・吉田秀男教諭が委員となり、作詞を師範学校教諭坂井 敬氏に作曲は同校教諭大西安世氏に依頼し、ここに校歌が制定された。

一、正面に仰ぐ金城の 松ふく風を身にしめて
ここ工業の粋を抜く 大和男の子の意気高し
二、機職 色染 窯業科 漆工 図案絵画と分け登る
麓の道は多かれど 高嶺の月はひとつなり
三、嗚呼勤勉と誠実は げにや我等の教へ草
教えのままに励みなば 重きつとめも何ふらむ
四、みよや南の空たかく 雲に秀づる白山の
雄々しき様ぞ業終へて 世に立たむ日の姿なる

第一次校歌改訂
大正13年に木工専修科を設けたことで6科となった。これまで4科を歌った歌詞であったが第二章節をつぎのように改めた。

二、機職 色染 窯業科 漆工 図案と木工科
麓の道は多かれど 高嶺の月はひとつなり

第二次校歌改訂

昭和11年に創立50周年を迎え、その2年後に太田誠二校長の熱意によって応用化学かが新設され7科となったので、昭和13年に校歌を改める。作曲を石川県女子師範学校の今井松雄氏に依頼した。三章節と四章節は現在も歌われている歌詞と同じであるが、一章節の歌詞に「日本男児の意気高し」とある。

一、正面に仰ぐ金城の 松ふく風を身にしめて
日本男児の意気高し・日本男児の意気高し

第三次校歌改訂
正確な年月日は今のところ不明であるが、昭和23年に金沢工芸高等学校に校名が改称されたさいに「ここ工業の粋をぬく」を「ここ工芸の粋を抜く」に改められたと思われる。(翌年には県立工芸高等学校と改称されるが、何れも工芸学校なので名言はできない)

第四次校歌改訂
昭和32年、70周年を迎えるにあたり男女共学に相応しくない語句があるとして、校歌一番の歌詞「日本男児の意気高し」が改められ「若き我等の意気高し」となる。川口教諭が作製した原案に西村教諭の意見を加えたものであった。次いで原作曲者今井松雄氏(この時、金沢大学教育学部助教授)に編曲を依頼した。

第五次校歌改訂
昭和33年、校名を石川県立工業高等学校に改称したさいに「ここ工芸の粋を抜く」を「ここ工業の粋をぬく」に改めた。これが今も歌われている校歌である。

◎大正期

吉田 佐次郎14代校長に就任 大正5年7月~8年4月 在職

大正に入ると前田家の理事なども勤めた青木外吉(窯業科卒)が卒業生初の校長(15代)に着任する。青木は美術史、工芸史、美学、デザインの強化を図るため後輩の高橋鐵雄(飛鳥鉄雄と号す)に図案科教諭として着任を要請する。高橋は要請に応え、学校職務の他に金城画壇発足に参画するとともに金沢洋画研究所設立し、後進の指導に力を入れ石川県の洋画壇の発展に大きな影響を与えた。

大正期のあせり

明治末期、本校輩出の優秀な人材が産業界、工芸界で活躍していた。本校卒業生は東京美術学校に進むのが当たり前のような状況で、美術学校とは太いパイプで結ばれているという表現がされるところであった。しかし、優秀な教師たちが教鞭を執っているなかで、設備の更新に手が回らず悩むところであった。成長目まぐるしい産業界の躍進と本校の実習内容に格差が生じ始め、大正に入ると本校卒業生が「高級技術者」として扱われなくなる。産業界のニーズに応えてきた本校の役割は絶大なものであったが、ここにきて設備の遅れが「あせり」を招くこととなった。このような状況下で、明治28年に窯業科を卒業し、同36年から母校勤務していた青木外吉が15代校長に就任した。卒業生から初めて校長が誕生したのである。兼六園校舎から本多町に移転し、本校が黄金期を築きあげてきた全てを知る青木が「あせり」の巻き返しにかかるのである。

名声を取り戻そうと県に改革整備を求め要望書を提出する。一つに実験実習室の設備充実を掲げたが、市内の長土塀に設立された工業試験場に、機械、色染、分析、窯業、塗工、図案が設けられ、本校がもう一つ出来たような状態になる。設備更新は何処まで認められたかは不明であるが、要望を満たすものでなかったようである。職業訓練に重点をおく徒弟学校の併設も同時に要望書に加えられていた。しかし、この要望も聞き入れられなかった。戸惑う本校に対して夜間教育に貢献していた補習学校を廃止することを言い渡される有様であった。明治41年に併設された補習学校は大正11年3月に廃校となった。

大正9年、優秀な人材が揃っていたので青木は学科改編で巻き返しを図ることにした。人造絹などを作り始めた繊維界に対応し、染織科を色染と機織の両科に分離独立して充実を図ったのである。機織科は昭和18年に紡織科となるが、色染科は科名を変えることなく昭和33年まで石川の繊維業界を支える人材を送り出した。青木の着目点は繊維関係の躍進だけではなかった。デザイン教育に重点を置いた本校の教育内容と、経済成長と共に西洋風の建築物が増えてきていることに対して考えるところがあった。

青木校長は大正10年(1921)学則を改め、尋常小学校卒業を入学資格とし、修業年限4年を改めて5年とした。その年、専修年限を2年とした木工専修科を新設し、洋風建築における内装、家具のデザインと、その家具製作に新たな活路を切り開こうとした。木工専修科の新設が実り、大正13年には木工科と改められ昭和33年まで続いた。

青木 外吉15代校長に就任 大正8年4月~昭和2年10月 在職

明治10年5月、小松市大川町銅器業志摩孫助の四男に生まれ、後のに青木家を継ぐ。明治28年、本校の窯業科を卒業。明治34年、東京美術学校の彫刻科を卒業する。明治36年8月、石川県立工業学校 窯業科主任教諭として奉職する。青木は納富介次郎の職務代行(心得)を勤めるほどの教育思想と木彫に長けていた村上九郎作(鉄堂)に師事している。

明治36年、文部省開催の第2回美術展に6尺豊かな男の裸体像を出品した。これは当時としては珍しい新作品であり、石川県より文展に入選する最初の作品であった。 本校所蔵作品にテラコッタ着色「漁夫」がある。底部が32×21㎝、丈は28㎝とやや小振りで、素焼きされた陶像に着色がなされ、手つきやしぐさに海に生きてきた老漁夫の年輪を感じさせてくれる。多くの胸像、銅像の制作に携われているが、殆どの作品が戦中の軍事拠出で失われているので「漁夫」は貴重な作品といえる。

大正8年4月、卒業生として初めて校長となった。昭和2年10月、一身上の都合で退任するまでの25年間、母校を愛し教育発展に一生を捧げた。辞任後は県工業試験場場長・県商品陳列所所長を歴任し、昭和12年から前田家の理事なども勤め、多くの方に慕われながら昭和33年12月、81歳で逝去。

写真-5、青木を手伝う生徒達は青木外吉ご子息より提供、複写を許可される。
写真-6、青木外吉15代校長作「漁夫」は約800℃で焼成した後に、着色されている。
写真-7、山脇雄吉16代校長の筆になる「聖徳太子の図」軸

金城画壇発足  (大正13年1月に発足し、昭和18年まで続く)

大正に入ると前田家の理事なども勤めた青木外吉(窯業科卒)が卒業生初の校長(15代)に着任する。青木は美術史、工芸史、美学、デザインの強化を図るため後輩の高橋鐵雄(飛鳥鉄雄と号す)に図案科教諭として着任を要請する。高橋は要請に応え、学校職務の他に金城画壇発足に参画するとともに金沢洋画研究所設立し、後進の指導に力を入れ石川県の洋画壇の発展に大きな影響を与えた。

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