朝日新聞記者の中村通子さん(高校34回卒)が講演ーー「父母と先生の会」主催、若竹会後援の講演会で
朝日新聞社記者/ジャーナリスト学校主任研究員、中村通子さんの講演会(都立富士高校「父母と先生の会」主催、若竹会後援)が、11月29日、都立富士高校、附属中学校1階の多目的ホールで開かれた。テーマは「医療と報道—命の現場で考えたこと」。災害時医療、生殖医療、再生医療、終末期医療など命をめぐる様々な医療現場でおよそ20年、取材活動をしてきた中村さんが、会場に訪れた約100人の父母や同窓生らを前に、「正解のない」医療と命の問題に正面から取り組んできた経験や思いを語った。
中村さんは1982年(高校34回)の卒業生。高校時代はオーケストラ部に所属し、チェロの練習に明け暮れる毎日だったという。「2、3週間前に片付けていたらこんなものが見つかったと、親から送られてきた」という通知簿をスライドに映しながら、「驚いたのは、3年間、無遅刻無欠席だったこと」と語る。それだけ、高校生活が楽しかったということで「いい高校に通えて良かった」。
大学は「1年ゆっくりした後」83年に東大理科2類に合格したが、ほかの大学は不合格だったという。「受験は実力とはまったく関係のないところで結果が決まるものだということを学んだ」と中村さん。
大学ではメンタルヘルスの専門家になろうと精神衛生を学び大学院まで行くが、「研究者はしんどそう」と方向転換。朝日新聞社を受け、採用された。
朝日新聞社に入り、記者の仕事は忙しかったが、あくせくしない性格。「楽しく過ごした」。そんな「なんの苦労もなく過ごしていた私を直撃したのが1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災だった」という。西宮市に買ったばかりのマンションが被災。街が崩れ果てた光景を見て、現場の様子を本社に伝えることすらでき、「本来記者としてしなければいけない仕事は、何もできなかった」という中村さんの目に映ったのが、おなかがすいている人におにぎりを配っている人の姿だった。被災者に寄り添う、素早い行動。「それこそが記者に求められることではないか」。
そう感じた中村さんは、その後、大阪本社科学医療部の部員になって、災害時の医療の取材を始める。台湾やトルコなど海外で起きた地震の被災現場にも足を運び、災害時の医療をテーマにした。
災害に関わる記事を書く原動力となったのが「阪神淡路大震災のときに人間として何もできなかった私は、記者として書き続けていくしかない」という思いだった。
災害時の医療とは何か。数千人、一万人を超えるような、たくさんの人が一度に死ぬような災害時に、どんな医療ができるのかを考える医療だという。
災害時は病院が機能を喪失してしまう。医者も自分の家が崩れ、家族が困っているのに出勤はできない。医者や看護師が怪我をしていることもある。需要が強烈に高まるときに供給が急激に落ちる。「これが災害時の医療と平時の医療の最も違うところ」と中村さんは解説する。「平時で助かる人が助からない。本当は助かる命を諦めざるをえない」。
阪神淡路大震災は、災害医療の契機となった。平時ならば防ぐことのできる死。災害時でもそんな死をゼロにできないかということで、取り組まれた試みが災害派遣医療チーム(DMAT)、 災害拠点病院、ドクターヘリ、現場医療などだった。
そして、東日本大震災が起きた。
阪神淡路大震災のときの反省や経験が生かされ、現場での外傷死は減った。
ところが、「いったん助かった、逃げのびた人が、その後に死んでしまうケースが後を絶たなかった」。
避難生活の疲労で、約3分の1の人が避難所の床の上で冷たくなってしまうのだった。
冷たい床の体育館での食事は、ロールケーキ3本とおにぎり10個。これで3日間を過ごす。
おばあさんの布団からかびのはえたケーキとおにぎりが出てくる。
毎食ロールケーキと言われても、喉を通らない。でも、捨てたり、文句を言ったら明日なにももらえないと思ったおばあさんは、ケーキをふとんに隠した。
そういう生活をしていくと、疲労はたまり、死に至る。
災害時の医療によって、外傷死は減ったが、「次のステップとして、このような人をいかに救っていくかがテーマになった」と中村さん。
病気が起きた時に治療するだけでなく、起きる前に予防をすることが肝心だ。災害も同じで、災害予防医学が重要になった。
東日本大震災では、被災者が多かった小学校と、まったく被災のなかった小学校に分かれた。決め手は、災害のときは「とにかく逃げる」。先生の指示を待たず、親のことも心配せず、逃げることを励行した小学校では被災した児童がいなかった。
教育の力で命を救った例だ。医療の枠を超えて、教育により死亡者を減らした。
医療報道には「3つの特性がある」と中村さんは解説する。
まず、医療の世界の難解な言葉を普通の人にかみくだいて伝える。「通訳」としての役割。
もう一つが、感染症などについて、子供でもわかるように伝え、「防災広報」的役割を果たすこと。
医療は、生命のありように迫る技術だ。再生医療、不妊治療、心臓移植などが典型的な例だが、それを医者にだけ任せていていいのかという問題がある。一般社会の感性で医療を見て、医療技術の暴走を防ぐ–。最後に、そんな「批評としての医療報道」が重要だという。
この3番目の課題と中村さんは正面から向き合ってきたという。
世界で初めて、1978年に体外受精で生まれたルイーズ・ブラウンさんの写真がスライドで紹介される。
体外受精が始まったときは「生命の誕生に人が手を加えていいのか」が大きな議論になったが、いまは、通常の医療として定着した。日本では年間出産の2%が体外受精児だ。
だが、さらなる倫理問題も生まれている。代理出産、クローン人間などの問題だ。iPS細胞から卵子を作ることが許されるのか。
「記者はある医療技術が確立されたという事実に接したとき『それってどうよ』という感覚を大事にしながら、その記事を一面アタマにするか社会面すみっこに置くかを考えなければいけない」と中村さん。「一般社会の感性でどう考えればいいのかが大事」なのだ。
その感性も10年後、20年後には変わっているかもしれない。
臓器移植もどう考えるかが難しい問題だ。臓器移植は腎臓、肺、肝臓で行われている。
生体肺移植が親子の間で行われている。しかし、「これを美談として伝えるだけでいいのか?」と中村さんは問題提起する。
「お母さんだから提供して当たり前という圧力が生じる懸念」があるのだ。
愛があれば何をしてもいいのか。
「健康な人にメスを入れることが普遍化していいのかは、一例一例のケースを冷静に考えなければいけない」。
安楽死問題。
「安楽死をめぐる事件は数多いが、『この人の判断は正しい』『間違っている』と言い切れるだろうか」と中村さんは問題提起する。
様々な指針があるが、そこに「解答」はないという。
書かれているのはたいてい、「話し合いのガイドライン」だという。話し合わないと答えがでないから、話し合いの仕方を決める。どこにも解答はない。
千葉県の31歳の女性のケース。ダウン症の子供が点滴のための管に囲まれていた。生後40日で危篤状態になり、点滴の管を抜いてもらい、最初で最後の抱っこをした。しかし、「管を抜いてしまったのは間違いだったか」と後悔する。
どうすればよかったのか。
中村さんは「自分で考えて決断したからこそ、後悔する」という。
医者に言われて、誰かに言われてやったことに対しては、後悔ではなく怒りを感じるはずだ。
「後悔は、ほかの人がそのような事態に陥った時、寄り添うことができる心の深さを養える」。
「どこで自分の答え見つけるかが大事」なのだ。
「災害サイクル」という概念がある。災害が起こり、それに対応し、復旧し、災害を減らす対策をし、準備をする。そしてまた、災害が起こる。でも、これは同じところをぐるぐる回っているわけではない。「この回転はらせん状になっている。反省と後悔を繰り返しながら、同じところに戻るのではなく、上に向かっている」と中村さんは言う。
「解答」は教科書にはない。
中村さんは自分の人生を振り返って役に立っているのと思うのは「自分で見て聞いて感じて判断したこと」「いろいろな現場で行動したこと」だという。
「ハレーションを起こすこともあったが、反省はしても決して後ろ向きにならない。考えて答えを出せば、前に進める」と思う。
「富士高校は高校生の自主性を重んじて先生が文化祭などを任せてくれた。自分で考えて動いてみることを教えてくれた。父母の方は勇気がいりますが、お子さんにいろいろな体験をさせてあげてください」。それで教科書の中にあることがより深く読み取れるようになると、中村さんはアドバイスする。
中村さんは、「生命と倫理の問題は誰もが避けて通れない問題で、そこには正解はない。でも、自分なりの答えは出せる。医療報道がその一助になるように、日々、記事を書いていますので、ぜひ、新聞を読んでください」と結んだ。
(上野勝敏校長)
(若竹会の大宮杜喜子副会長)
(「父母と先生の会」会長の砂金達さん)
中村さんの講演に先立って上野勝敏校長、若竹会の大宮杜喜子副会長が挨拶。講演会後には主催者の「父母と先生の会」会長の砂金達さんから謝辞があった。
中村さんの心に残る講演会は、都立富士高校、「父母と先生の会」、若竹会の三者の協力関係をさらに深めてくれた。(高校27回卒・相川浩之)
<講師略歴>
中村通子(なかむら・みちこ)
朝日新聞記者。1982年都立富士高校卒。87年東京大学医学部卒。89年東京大学大学院医学系研究科保健学修士課程修了。保健学修士。同年、朝日新聞社に入社。97年から主に大阪本社科学医療部で医療・健康の分野を担当。2007~13年は編集委員(医療担当)を務めた。14年9月からは岡山を拠点に中四国ブロックの医療を中心に取材している。日本中毒学会、日本臨床救急学会、日本感染症学会などに所属。09年から日本集団災害医学会評議員。