富士高校で美術教師を19年務めた佐藤先生の「50回展」を卒業生有志が企画〜佐藤先生インタビュー
都立富士高校などで38年間、美術教師を務めながら、世界各地の史跡や辺境の地を精力的に取材し、民族固有の伝統、文化、祈りのかたちを描き続けてきた佐藤美智子先生。先生が1961年から2015年までに49回にわたる個展で発表された130号クラス(194cm×146cm)の大型作品数十点を一堂に展示する美術展「佐藤美智子50年展」を12月16日から27日まで、アートガーデンかわさき(川崎市川崎区駅前本町12-1)で開催する。企画しているのは、都立富士高校の教え子有志たち。50回目の個展は先生と教え子のコラボ美術展となる。佐藤先生に美術展開催について聞いた。(聞き手・高校27回卒・相川浩之、落合惠子)
※佐藤先生の美術展を人的、資金的に応援するプロジェクトについて、文末で紹介しています。ご覧ください。
――先生は今年1月、49回目の個展を東京・有楽町の「ギャラリー日比谷」で開かれました。節目となる50回目も来年早々、ギャラリー日比谷で開かれるのかと思っていました。なぜ、50回目は今年12月にアートガーデンかわさきで開くことになったのですか。
佐藤 50回目の個展の取材のための訪問地としてブータン行きを計画しましたが、「要介護状態で、ブータンの高地で過ごすのは、身体に負担がかかり、危険。家族の同行がなければ、ツアーに参加するのは難しい」と、ずっと利用していた旅行会社に言われました。かつてインドの高地に飛行機で行った時に、意識を失ったこともあり、旅行会社の言うことも正しいと思い、「個展は49回で終わりにする」と決めました。
一昨年、脚立から落ち、骨折してから脚に血が通わず、首も痛い。このあたりが限界と思いました。
新作を発表する個展は諦めていたのですが、これまで個展の準備を手伝ってくれた教え子たちが、かつてフランスで個展を開催したときのように、大きな作品を展示する展覧会を企画してくれることになり、お任せすることにしました。
ギャラリーに、よく個展を見にきてくれた教え子たちも、私の20代、30代の作品は知らないと思います。また、30歳ごろから描き始めた仏教絵画で、フランス政府が個展を開いてくれました。アートガーデンかわさきでの美術展では、そのころの作品を含め、私のこれまでの主な作品を見ていただきたい。「入場無料」ですので、ぜひ、足を運んでください。
――1998年3月1日から20日まで、「フランスにおける日本年」の一つとしてフランスで開催された「サトウミチコ展」では、仏像を描いた作品36点が展示されたと聞いていますが、どんな経緯で招聘があったのですか。
佐藤 1997年から1999年にかけて「フランスにおける日本年」と「日本におけるフランス年」として、両国において多くの記念行事が行われ、国宝級美術品1点ずつを相手国で公開することも決まりました。日本からは百済観音、フランスからはウジェーヌ・ドラクロワの代表作『民衆を導く自由の女神』が選ばれました。法隆寺の御仏は門外不出だったのですが、そんな経緯で百済観音がフランスのルーブル美術館で公開されたところ、連日、長蛇の列ができました。仏像の人気にフランス人が驚き、仏像を描く現代作家はいないかということになって、私に話が来たのです。
卒業生(24回卒)のHiroko Martin(向井)さんがフランス語の画集を作ってくれて、現地では通訳もしてくれました。
――先生は世界各国を回り、その地の民族、宗教、文化に関心を持って絵を描かれてきたわけですが、30代は、主に、仏像を描かれていたのですね。
佐藤 東洋には仏像や仏跡がたくさんあるので、日本軍が侵攻したような国は全部回ろうと思い、回りました。各民族の宗教に関心があった。
――人間の営みのなかでも、特に、仏像に関心を持ったのはなぜですか?
佐藤 信仰の対象として彫ったものでしょう。形となって現れた思想や信仰を見てみたかった。
――日本でも相当、仏像は見て回られたのですか。
佐藤 教師になってからは毎年、奈良や京都に行っています。琵琶湖周辺にも、十一面観音など、すごい仏像がたくさんあります。
――画家としてのデビュー作は、今年1月の個展で展示された「末人の海」ですね。「ツァラトゥストラ」の中で、ニーチェが「何の目的もなく、人生を放浪し、生をむさぼるだけの人間」とした「末人」がテーマ。抽象画ですね。
佐藤 抽象画ではありません。具象的に「末人の海」を描いています。でも、明治、大正生まれの太平洋美術展の先生方はあの絵を見てびっくりしたらしいです。筆で描いている絵ではなく、岩石みたいな絵の具を貼り付けていたので。男性が描いた絵と思ったらしいです。
セメント会社や石材会社をたくさん調べて、いろいろな石を使いました。物理や化学の先生方に、これをキャンバスに貼り付けるのにはどういうものを使えばいいかを聞きました。かなり研究して、あの絵にたどり着きました。
――先生は、学生時代から美術の先生になろうと思っていたのですか。
佐藤 社会科の先生にもなりたくて免許は持っていました。美術関係は工芸、彫刻、絵画など、いろいろな分野を学び、免許をとりました。
――絵は子供の頃から得意だったのですか。
佐藤 小学校も中学校も高校も学校の代表で展覧会などに絵を出していました。
――先生は福島県で長く過ごされたと聞いていますが。
佐藤 小学校2年生までは亀戸にいて3年生になってから疎開で福島県の小学校に行かされました。福島は両親の故郷でしたので。
――絵はどこで学ばれたのですか。
佐藤 父は変電所に勤めていたのですが、日曜になると日本画を描いていました。特に絵を教わったことはありませんが、小学生のときに描いた遠足のときの絵は校長室に飾られました。
私は長女で兄が5人いました。下は弟がいてその下に妹が2人。一番上の兄も絵描きになるつもりでいたのですが、父に反対されて軍人になりました。その兄は私が絵を描いているからと、私が30歳になるまで、毎月、3000円を送ってくれました。3000円というのは当時の国立大学の半年分の学費に相当する額でした。
――社会科はどんなところに魅力を感じたのですか。
佐藤 社会科は面白いです。経済も哲学も。高校のときは学校の図書館や、町の図書館、町の本屋さんに毎日立ち寄っていました。図書館の一番下に並んでいる哲学の本は全部引っ張り出して読みました。人文地理は地球を全部歩きたいから関心がありました。北極とか南極とか人が住まないところに行く気はしないんです。
――人と文化にご関心があるのですね。
佐藤 宗教と民俗に関心がありました。私が砂漠を巡ったときには今のような紛争はなかったのに、残念です。遺跡まで壊すなんて–。
――先生は、どうして世界に憧れたのでしょうか。
佐藤 未知の世界を見たいと思いました。未知の本を読むように未知の世界を知りたかった。
――最終的には美術の先生を選んだわけですね。
佐藤 社会科は好きでしたが、社会科の先生という仕事には魅力を感じませんでした。
――美術の教師として最初に採用されたのは豊島区立駒込中学ですね。
佐藤 義務教育で一定期間教べんをとるという条件で、大学で奨学金をもらっていましたので、まず駒込中学に赴任。その後、学校群制度スタートの1967年に都立富士高校に着任、19年間勤めました。1986年に都立千歳丘高校に転任、定年まで10年、勤めました。
――美術で表現を磨くためには、技法だけでなく、物事に対する幅広い関心も必要ですね。美術の授業をどう考えられていましたか。
佐藤 学問のなかでも芸術が一番難しいと思います。「隙間」だらけだから。まだまだ研究、探検の余地がある。生徒には生まれて初めてというような経験をさせました。「表現技法」というのがあったでしょう?筆で描くだけじゃなくて、いろいろな技法を試してもらった。「ピーナッツの殻に絵の具をつけて転がすとこうなるんだよ、先生」なんて得意げに見せにくる生徒もいました。
――「表現技法」の課題は大変でしたけれど、楽しみでした。
佐藤 15、6種類は教えるわけ。あとは自分で技法を開拓してもらう。
――先生はずっとアトリエにいらっしゃいましたね。
佐藤 現在の自宅のアトリエができるまでは朝まで学校で絵を描いていました。学校がアトリエでした。
――先生というよりは作家が美術室にいた感じでした。
佐藤 でも、「教えたい」という気持ちは強かったのですよ(笑)。「美術の表現は探せば無限にある」ということを教えたかったのです。
――それを自分でもやって見せた。
佐藤 そうそう。
――僕らは先生のやられていることをもう少し見に行けばよかったんですね。
佐藤 そうですよ。
――高校生って、受け身で知識を詰め込まれていたけれども、先生は聞きにいけば、答えてくれたんですね。
佐藤 だから、美術室に入り浸っている生徒がいました。一浪二浪した生徒は書類を取りに学校に来るわけでしょう。そうすると美術室はいつも明かりがついている。それで、話し込んでいく。
――行きやすい場でした。そういえば、先生が個展を永年、開いてきたギャラリー日比谷もそんな雰囲気でした。
佐藤 ギャラリー日比谷は富士高校の21回卒の女流画家、今村圭さんの紹介で個展を開いたのがきっかけです。千代田線で行けば自宅から1本という好立地なので気に入りました。それからずっとギャラリーは変えなかった。
――個展は、ずっと1月開催でしたね。
佐藤 早く外国に行きたいでしょう。だから、個展が終わったら、すぐに飛び出す。5月搬入の太平洋美術展があるから、そのための取材に出ていました。
学校で教えていたときには春休みと夏休みに取材をしていました。
――夏休みに取材したものが個展の新作になるわけですね。当時は今よりも世界を自由に回れたんですね。
佐藤 自由に回れました。一人旅で注意はしていたけれど、危ない目にあったことはありませんでした。
――先生は何度もフランスに行かれているようですが、フランスから美術展開催の依頼があったときは嬉しかったでしょう?
佐藤 幸運だったと思います。その時は60歳を過ぎていて退職金があったので。日通に聞いたら絵の輸送費が1000万円かかると言われたけれど、ヤマト運輸が650万円で引き受けてくれて、実現しました。
130号クラスの大型の作品も含めて36点展示されました。そんな経験は初めてで、この12月の美術展は、同じ感じで観ていただけると楽しみにしています。
――先生の大型作品は、多面体が絵の中に隠れているような技法を使われていますが、どんな狙いなんですか。
佐藤 いろんな空間感を出すために、使っています。そうやって画面のなかに取材をしてきたいろいろな要素を表現しています。
――我々からみると、デビュー作の「末人の海」とは表現が随分変わっていますが、何かあったのですか。
佐藤 「末人の海」は、図書館で読んだ大思想全集のなかからヒントを得て、描きました。でも、実際に生の世界を見てくると、写実的に描かなければだめと思いました。アフリカの民族を抽象的に描くなんて無理です。
――表現が変わる途上はどうだったの興味があります。
佐藤 その途中を、ほとんどの人は、見ていない。
――ぜひ見たいですね。
佐藤 49回目までは自分で個展を開催してきたけれど、50回目は有志の方々がやってくださるので、私はしゃしゃり出ません。
――先生の絵に対して、「平和、反戦がテーマ」という言い方をされる方もいますが。
佐藤 アメリカは許せないと思っています。原爆を広島と長崎で実験したことは許せない。だから、アメリカには行きたくない。アメリカの絵は描く気が起きません。
――中東では一部の勢力が貴重な遺産を破壊しており、そうしたことに対する怒りはあると思います。しかし、そうしたことが動機になって絵を描かれているのではなく、描かれているものは必ずしも「平和、反戦」ではないと思うのです。先生は、なぜ、世界中を見て歩いているのですか。
佐藤 世界中を見ないと多様性がわからないからです。多様性に一番関心があります。本ではなく、現物を見なくてはという気持ちがあります。「砂漠は暑い」というのは体験しなくては。私は虚弱児だったし、いまも薬が手放せないのだけれど、現地に行って、体験したいと思うのです。
――身体に自信がないとなかなか外に出て行く勇気が出ないものですが、先生の場合、何か、かき立てられるものがあって行ってしまうのですか。ミッションを感じられているのですか。
佐藤 やはり世界地図です。当時から、社会科の部屋からでっかい地球儀を美術室に持ってきて眺めていました。世界をすべて見てみたいと思っていました。
――何カ国ぐらいを回られたのですか。
佐藤 私の記憶が正しければ、180を超える国・地域を回りました。オリンピックの入場行進を見て、まだ、行ってない国はないか、探しました(笑)。
ーー人間の営みのなかでも、特に、仏像に関心を持ったのはなぜですか?
佐藤 信仰の対象として彫ったものでしょう。形となって現れた思想や信仰を見てみたかった。
――今回の美術展では、大きな作品を中心に展示されるとのことですが、佐藤美智子先生を知ってもらいたいと思ったとき、小品もぜひ展示してもらいたいですね。やさしい小品をみると大きな作品の厳しさもわかる。対比があったほうがいいような気がします。
佐藤 小作品はいろんな方向を向いて描いています。
――先生は一昨年、脚立に足を挟んで落下、骨折をしてしまいました。入院を勧められたにもかかわらず、海外に取材に行ってしまった。あのエネルギーはどこから来るのでしょう。
佐藤 この機会を逃したら、そこへはもう行けないと思うと、諦められませんでした。
――今回は一区切りで、集大成展の開催になりましたが、描く点数は減っても、これからも、新作をぜひ描き続けてください。
佐藤美智子(さとう・みちこ)
1935年11月25日、滝野川区(現・北区)昭和町で生まれる。44年に福島県に疎開、58年まで過ごす。58年福島大学学芸学部美術専攻課程卒業。58~67年、豊島区立駒込中学、67〜86年、都立富士高校、86〜96年、都立千歳丘高校で美術教師を務める。
61年太平洋美術展初出品、文部大臣賞受賞、会友に推挙される。安井賞候補新人展に「末人の海」を出品。64年日本橋の秋山画廊で第1回個展。75年InSEA(国際美術教育学会)パリ大会参加、以後、3年に1回の学会に2011年まで参加。98年第32回個展=「フランスにおける日本年招聘展」(クレルモン・フェラン)2015年第49回個展をギャラリー日比谷で開催。
※佐藤先生の美術展「佐藤美智子50年展」は、富士高校の卒業生有志によるプロジェクトチーム(発起人・長昌浩、橋本真理子、矢野史子、佐藤清親、今泉茂徳)で準備を進めています。開催中の運営など、お手伝いいただける方を求めています。
※9月7日、佐藤先生のご自宅&アトリエで、プロジェクトチームが初期の頃の作品の”発掘”作業をしました。先生がインタビューで語っていた、「私の20代、30代の作品を、見事、発掘。文字通り、佐藤先生の50年の集大成展となりそうです。作品集の撮影も行いました。作品集もお楽しみに!
※9月18日、「佐藤美智子50年展」のプロジェクトチーム15人と広報2人が四ツ谷に集まり、佐藤先生もお呼びして、健闘を誓い合いました。プロジェクトチームは49人に膨れ上がりました。この中には駒込中学の卒業生2人、千歳丘高校の卒業生2人も含まれます。3校が協力する態勢が整いました。
※また、クラウドファンディングの仕組みを利用して、9月12日から12月11日まで、美術展開催のための資金の支援をお願いしています。ご協力いただける方は
https://readyfor.jp/projects/SatohMichikoまで。