東京・銀座で工芸の個展〜大学、高校の先輩、後輩が作品、人生を語る

 今年の夏、富士高校の卒業生で多摩美術大学出身でもあるお二人が、偶然、東京・銀座の目と鼻の先で、それぞれ個展を開催した。23回卒の野田收さんがACギャラリー(中央区銀座5-5-9阿部ビル4F)で6月25日から30日まで開いたのが「野田收ガラスワーク」。32回卒の山口みちよさんが松屋銀座(中央区銀座3-6-1)7階遊びのギャラリーで6月22日から28日まで行ったのが「山口みちよ鍛金展」。一足早く個展を終えた山口さんに、野田さんの個展会場までお越しいただき、お二人にお話を伺った。(聞き手・27回卒、落合惠子、記事構成&写真・27回卒、相川浩之)

ーーお二人は、どんなことを思われながら、作品を作られるのですか。
野田 ドキドキ、そわそわ、こうしたらどんなふうになるんだろうか、と思いながら新島ガラスを使って作品を作っています。もちろん、先輩諸氏からいろいろな技法は学んでいるのですが、自分でもいろいろ試してみるのが楽しいし、それがあるから集中して仕事ができるんだと思います。

山口 野田さんはガラスで自由な創作をなさっているのですね。
 金工の場合は、ある程度計画的に仕事を進めなければならない部分があります。素材が硬くて、なかなかいうこときかないので、手順を追って積みかさねる形で作業をしています。
 最初に、何をつくるかを考え、スケッチをしたりモデルを作ったりする段階では、わくわくドキドキなのですが、作っている最中は、一歩一歩進んでいる感じです。もちろん、作品ができあがる瞬間はうれしいですけれど。

ーーお二人の作品は、「置いておく」ものではなくて、手に触れたり、使ったりするものだと思います。お二人の作品を拝見していたら、「使って、使って」と呼びかけられている感じがしたんです。

野田 生活の中で使ってもらえたらいいなと思います。作品を見て、自分なりの使い方を発見し、毎日、直接触れて道具として使っていただけるとうれしいです。
山口 金工も同じで、花入れでも花が入って完成するような器を目指しています。
野田 “完成形”にしてしまうと収まりはいいかもしれないけれど、訴えかけるものがなくなってつまらない。
 どこか足りない感じがいいと思います。
 あとは使う方が付け加えていくーー。

ーー“自分”を押し出しすぎるとダメだということですか。
野田 若いころは自分を押し出していました。
山口 そうですね。これでもか、と表現していましたね。
野田 でも、今は、完全な形というより、使われる方によって、成長していくものであってほしいと思います。
山口 私がやりたかったのは彫刻ではなく、工芸の世界なんです。工芸は使い手がいます。

野田 彫刻は、距離おいて全体をみるものだと思いますが、工芸品は直接手に触れられる。目だけでなく、皮膚感覚も使って、全体で感じるものです。使ってもらってよかったといわれるとうれしいです。
 けれども器として使う部分以外のところで、自分の思い入れ、わがままを入れる。
 彫刻的なものと工芸的なものとのせめぎ合いがあるんですね。

ーー茶道の世界では、お茶碗を作ったり茶杓削ったりする方が多いです。道具に対する関心が外側にあるだけではなくて、作るところに入ることで、道具がいとおしくなる。
使う時にも、道具に対する思い入れがあったほうがうまく使えるらしいです。
山口 作るところに携わってそうした思い入れができてくるのはいいですね。
野田 人と人が、使ったり作ったりすることを通じて、分かち合うものが生まれるんでしょうね。
僕の場合は使ってくださる人の声を大事にしています。それが、次の作品のきっかけになったりする。
山口 自分が納得するものを出すというのが基本です。でも、自分自身、どういう個性があるか、よく分からない。でも、ほかの方から「個性的な素材の扱いをしていますね」といわれるとそうなんだと気づいたりします。

ーーこれからこういうものを作りたいとか、挑戦したいものとかはありますか。
野田 昔から水が落ちる音や風の音を形にしたいと思っていて、水の形、風の形といったテーマで作品を手掛けているのですが、実際に、水と一緒に使えるものとか音が出る器とか、そういうものももう少しで生まれそうです。

ーー新島ガラスという素材からもっと何か別のものが生まれそうなのですか。
野田 例えばガラスに穴をあければ風の音がぴゅーっとする。いま自分が手がけているふだんの空間で使うものとは別に、外にも置けるものを考えています。
 通常、ガラスというのは作る目的に合わせて、ほかの成分を加えるんですが、新島ガラスは、天然のまま使っています。新島ガラスの場合は自然の緑の色を生かして製品を作っています。最近ではいろいろな色を使っていますが、20数年間、ずっと単色の作品を手がけ、バリエーションは、厚みを変えたり、作り方を変えたりして出してきました。

ーー山口さんも、素材へのこだわりはありますか。  

山口 私は最初から鉄が好きでした。鉄は、普通に使われているものを見ると工業的で硬いイメージがあるんですが、火に入れてたたくと、柔らかい表情が出ます。表面には鉄独特な錆びの色を出すことができます。錆びは中の金属を守っているんです。

ーー錆びって年月を経ることでさらに変化したりするんですか。

山口 鉄の場合、外に置くとさらにさびたりする変化はあります。わざと長い間、外においてさびさせたものを作品にする工芸家の方もいらっしゃいます。変化する面白さが鉄にはあるんですね。呼吸しているといいますか。
 鉄が好きで、「自分椅子」というシリーズを毎年、1つずつ作っています。セルフポートレイト(自画像)のつもりで、作っているんです。
 最近、展覧会では小さいもの、きれいな感じのものが人気があるので作っていますけれど、25年前に松屋銀座で開いた初個展は、椅子だけを展示しました。ほかのことは考えずにそれだけで行こうと思ったんです。
 そのころに立ち返って、やりたいことはちゃんとやろうと思って、椅子はちゃんとやっていこうかなと思います。

ーー器も、見ていて、ここに何を入れようかな、と思うんですけれど、椅子も、誰が座るのかな?何を置くのかな?といろいろ想像を掻き立てられます。
山口 椅子は脚があるので人間に近いものを感じますし、身体にフィットするという意味でもとても魅力的です。

ーー野田さんは先ほど、最近は新島ガラスの本来の色以外の色も使うようになってきたとおっしゃられていましたが、色をもっと使ってみたいというお気持ちはあるんですか。
野田 我々が使っている色ガラスは、工芸的に開発された色ガラスで、今回使ったのはニュージーランドとドイツで作られている色ガラスです。全世界のガラス作家はそれを使っています。
 焼き物を作る人は、金属を入れたりして、自分で工夫して色を出しています。新島ガラスでもそうした挑戦はできるのかもしれませんが、やり始めたら、中途半端にはできないので、大変な作業になると思います。それよりは、造形的、技術的にやってみたいことがまだまだありますので、それを優先したいです。
 今回展示したモザイク状の色ガラスは、妻の板ガラスを使わしてもらっているんです。普通の色ガラスなんだけれど、新島ガラスがカバーしていることで、色みがしっとりしました。発色は抑えられるんですけれどしっとりした味わいがいいなと思いました。

ーーいま、奥様のお話が出ましたが、野田さんの奥様も野田さんと同じ多摩美大出身で、山口さんとご主人も多摩美大出身。4人で同窓会ができてしまうんですね。
山口 クラフトデザイン協会が実施していた「日本クラフト展」に注目していて、協会の理事をされていた野田さんに協会に入る時に推薦状を書いていただきました。将来有望だと書いてくださって。そこに出品したことが勉強になりました。
 最初、野田さんは「多摩美の先輩」としか思っていませんでした。高校の先輩でもあることは、かなりあとになって知りました。会報「若竹」に野田さんの記事が載っていて驚きました。

ーー野田さんは高校時代は、将来どうするかはあまり考えられなかったそうですね(笑)
野田 部活のサッカーを3年までやってしまったからね(笑)。

ーー山口さんも3年生になってからようやく考えられた(笑)。
山口 オーケストラ部の部活が終わった後、佐藤先生に相談したら、反対されなかった。
いいものを見る感覚はあるから、いいんじゃないのと軽く言われた。
野田 僕は二浪してからデッサンを始めました。高校時代は音楽専攻だったんです。美術の先生とはコンタクトはなかったんです。
美術はもちろん、嫌いではなかったんですが、それが職業的に成り立つとは思っておらず、自分のなかでそういう範疇に入ってこなかったんです。
 中学まで新島の中学にいて、父親が校長で東京に異動することになって、僕も東京に来ました。1年目は父と姉と3人の生活でした。
勉強に追いつくのが大変で、9月には1ヵ月肺炎で入院しましたし。女性がノートとってくれたりして大事にしてもらいました。
 1クラス49人のうち半分以上が女性でした。

 その頃は文科系の仕事に就くと漠然と思っていまいた。
 二浪して、あるとき伊勢丹に立ち寄ったら、別館2階にデッサンする学校があったんです。こんなところに勉強する場所があるんだと思いました。
 二階に行ったら女性の受付の方がいました。彼女が、絵を描いてごらんと言うんです。ブルータスを描きました。石膏像を描くのは初めてでした。
立体感出そうとして影を入れたりしたら、技術がないから、線で真っ黒になりました。3時間くらいかけて描き、講評会で、「下手だけれど迫力がある」と言われました。何を褒められているかもわかりませんでした。
 ただ、そのとき、我を忘れ没頭しました。時間を忘れ–。これだけ熱中できたのはサッカー以外はそれまでありませんでした。
 こういうこともできるんだと思って、そこに1年通いました。
 なんでもできると思うと集中できないというのがありますよね。失敗挫折して、自分はこういうことが好きなのかなと思って、美術の世界に入ることになりました。
 9月くらいに美術の勉強を始めて冬の試験に受かるわけはありません。
お茶の水美術学院に入って1年勉強して多摩美に合格しました。

ーー山口さんはが多摩美に入ったきっかけをもうすこし伺えますか。
 山口 美術専攻ということに迷いはありませんでした。ただ、憧れがあって、部活では、オーケストラ部に入りたかった。部活にすべてを捧げて、家に帰ってはフルートを練習していました。
 美術については、子どものころから工作をするのが大好きでした。時間を忘れて、ご飯も食べるの忘れて彫刻刀を使っていました。その作業自体が好きだったんだと思います。
 高校に入って、油絵もしたのですが、挫折しました。でも、佐藤先生が絵本を作ったり、版画を作ったりいろいろなカリキュラムを用意してくれていて、私は、立体的な木彫りの人形を作ったりしました。先生はなにも言わず、
好きなことやらせてくれました。
 美大は工芸科を受けたかった。木工をやりたかったんだと思います。
 木工を漠然とイメージしながら新宿予備校に通いました。
3年のときに代々木ゼミナールに行って、デッサンを初めて描いたら、あまりにもひどいデッサンで、落ち込みました。それでも美大に行きたいという気持ちは変わらず、芸大を第一志望にしたのですが、受かったのは多摩美でした。

 初めはプロダクトデザイン科に入りました。1年と2年のときに一通りプロダクトデザイナーになるための教育を受けました。
 3年になってから工芸科に移り、ガラスか金工(金属工芸)を選べと言われました。こつこつ木工をやりたかった私としては計画的に積み重ねて作る
金工がいいと思い、金工を選びました。
 そこで鉄が好きだということがわかり、4年になる直前にやっと自分の方向が決められました。
野田 1977年くらいに多摩美に新しい科を作ろうという話が出てきました。ガラス、そして、金工も一緒に作ろうということになりました。
 そして「クラフトデザイン」という枠組みで二つの授業が始まりました。
 僕はその1期生なんです。
 最初はなにもなくて、木工室の外にテント張って、火を焚いていました。金属の人たちは表でカンカンやっている。
 自分たちで道具や設備を作りながら、始めたんです。1年後にプレハブができました。
 僕は最初、プロダクトデザイン科にいたのですが、デザインワークより手で完成品作りたいという欲求がもともとありましたので、4年のとき、できたばかりのクラフトデザインに移ったのです。
 そこで出合ったのがガラスでした。
 ただ、そのときには新島ガラスにつながるとは思ってもみなかったです。

ーーガラス工芸を始めたときには新島ガラスとの結びつきはまったくなかったのですね。
 コーガ石(抗火石)という新島で産する火山岩をくり抜いてガラスを乗っけてみようとは考えことはあります、石自体をガラスにしようというところまで考えは及ばなかったですね。
 僕が留学から帰ってきたときに、初めてそういう話があったのです。
 イリノイ州立大学の大学院で3年ほど勉強して帰ってきたときに、新島の役場の担当者からコーガ石をガラスにしたいという話があったのですが、そのときは工場を誘致するような話だったので「それは違う」と思いました。
 留学中は世界中のトップレベルのガラス職人がシアトル郊外に集まり、ワークショップを開催していました。夏はそこでアシスタントをして過ごしたりしていましたので、新島でも、いろんな人たちが出入りできるガラスの施設を作りたいと思いました。小さい瓶つくったりする工場を作るのではなく、ガラス自体の可能性を探り、いろいろな体験できる施設を作るべきだという報告書をまとめ、議員さんを長野県安曇野市にあるあずみ野ガラス工房などに案内し、
「地域性もあるし、原料もあるので、自分たちで勉強しながら村の人が育てる施設にしないと長続きしない」と強調しました。
 工場でなく、新島の教育や産業に活用できるような施設にしたいという思いは「新島ガラスアートセンター」として実現することになり、言った本人が責任者となりました。最初は村が4000万円くらいの予算で計画しましたが、国の補助金もついて1億8000万円を投じて作ることができました。
 新島で生まれ育ちましたが、新島とは縁があります。新島から東京に移り、富士高校に入ったときの担任が新島先生ですから(笑)。

ーー山口さんは、多摩美を卒業されてから、どんな経緯で作家になられたのですか。

山口 卒業したらふらふらしないで就職しろと父からも言われていたので、就職課に求人がきていたハンドバッグの会社に就職しました。
 そこでいろいろなことやりました。海外のブランドをこちらでアレンジして販売したりしていましたが、会社がバッグ以外の分野にも事業を拡大していくことになりました。そのとき、電話機の自由化に伴い、新しい電話を出すというプロジェクトが始まり、その担当になりました。
 そのときにプロダクトデザインがようかく役に立つと思って始めたのですが、非常に売れまして、その後、いろいろな文房具を出すというようなときもわたしが担当するようになったのです。
 そのとき、ファッション業界よりものをつくる方がいいなと思ったんです。
 5年間、社会ってどうなっているという勉強はさせてもらいました。
 そういう勉強はできましたが、主人が多摩美に勤めていて、自分の仕事場がほしいということを言い出しまして、会社の仕事も面白くなっていましたが、ものづくりをしたいと思い、一緒に独立したんです。5年間のブランクの後、金工に戻りました。

ーーお二人とも回り道をされているようで、それがいまに生きているのですね。

野田收さん(新島ガラスアートセンター館長)
1952年 東京都新島生まれ
1978年 多摩美術大学立体デザイン科クラフトデザインガラスコース卒
〜80年 同立体デザイン研究室勤務
1984年 イリノイ州立大学大学院卒
    野田ガラス工房設立
1986〜90年 多摩美術大学非常勤講師
1988  新島ガラスアートセンター設立
現在  同ディレクター
<仕事について>新島ガラスアートセンターというところを村から委託されて運営しています。そこでは新島ガラスという新島の火山石を使って作った素材の開発からものづくり、さらに研修なども行っています。毎年10月、あるいは11月に新島国際ガラスアートフェスティバルを開催、ワークショップも行っています。観光客向けには新島ガラスでグラスなどを作る体験教室も開いています。
 作家活動は大事にしていて、年に1回個展を開きます。作家をしながら啓蒙活動に力を入れています。
「野田收ガラスワーク」

山口みちよさん(鍛金作家)
多摩美術大学立体デザイン科クラフトデザイン金工コース卒(1984年)
栃木県に工房設立(1989年)
茨城県に「アトリエ金工やまぐち」設立(1998年)
日本クラフトデザイン協会会員
茨城工芸会会員

<仕事について>
 いろいろな金属を使って工芸品をつくっています。
 金属は鋳物とは違い、型を作ってそこに金属を流すというのとは違いまして、もともとある金属の板とか棒材を赤く熱して、金槌で叩くことによって、いろいろなものを変形させてものを作ります。一般には「鍛金(たんきん)」と言われる作業をします。もともと日本にある金工の技法の一つです(鋳金、彫金、鍛金の3つがある)。わたしの作品では、鍛金の中にも彫金の技術がちょっと入ったりしています。
 工芸は純粋なアートというより、造形に、用途というものが必ず付いてきますので、ある程度限定された世界の中で、自分を表現します。
 百貨店、ギャラリーなどで個展を開催しています。
「山口みちよ鍛金展」