『村上海賊の娘』の著者、和田竜さん(1988年、40回卒)に聞く、“映画のような小説”誕生の秘密
「全国書店員が選んだ いちばん!売りたい本 2014年本屋大賞」(2014年本屋大賞)に、都立富士高校卒の脚本家・小説家、和田竜さんが著した『村上海賊の娘』が選ばれた。和田さんは、『村上海賊の娘』で、大衆小説分野の有望な若手作家に与えられる「第35回吉川英治文学新人賞」も受賞した。文学賞のダブル受賞は快挙。和田さんにお話をうかがった。
(聞き手/高校27回卒・相川浩之、落合惠子)
――和田さんは大阪でお生まれになって、生後3ヵ月から中学2年生まで広島市で暮らされていました。土砂災害のあった広島市安佐南区にいらしたということですが、いま、広島に、ご親戚はいらっしゃらないのですか。
和田 僕は父親の転勤で広島に行っていたので、親戚はいないのですが、友人の安否は気になります。ニュースで安佐南区の八木、緑井という地名をよく聞くと思いますが、この両地区と僕の住んでいた川内の小学校から集まってくるのが城南中学校という僕が通った中学校です。ですから中学校の同級生があのあたりに住んでいます。具体的な情報が少なくて、なかなか同級生の安否はわからないのですが、今のところは同級生が被災したという情報はありません。
――大阪でお生まれになったと言っても、生後3ヵ月ですと、記憶はないのでしょうね。
和田 まったく覚えていません。20歳くらいのときに、ここに住んでいたんだぞって、親に連れて行かれましたが、覚えていませんでした。寝屋川市で生まれました。
――ご両親は関西出身ですか。
和田 父が岩手で母が東京です。転勤の途中で生まれたという感じですね。父は当時、工業用ミシンのJUKIの子会社にいました。
――ご兄弟は?
和田 4つ上の兄がいます。
(因島と因島大橋)
――和田さんは広島育ちということで瀬戸内海の島々には親しみがあったのではないですか。――和田さんは広島育ちということで瀬戸内海の島々には親しみがあったのではないですか。
和田 住んでいた安佐南区は太田川を遡ったところにありまして、あまり海にまでイメージが及びませんでした。呉や尾道に住んでいたら、瀬戸内海を意識したのでしょうが、瀬戸内海は“旅行に行くところ”というイメージでした。
父は、よく僕ら兄弟を名所旧跡に連れて行ってくれ、因島にも行きました。ただ、全然覚えていないんです(笑)。小説を書くために5年前に瀬戸内に行って、こんなにいい景色なんだと再認識しました。
因島の記憶はないのですが、瀬戸内海に村上水軍という海賊がいたという知識はあって、「かっこいいな」とは、子供のころから、ずっと思っていました。
――歴史を好きになったのはいつ頃からですか。
和田 富士高校の日本史の先生には申し訳ないのですが、大学に入ってからです。高校で教わる教科書の歴史は、人間の感情が排されて書かれているのですが、人間の感情が伴わないと歴史ってよく分からないのです。事実だけの羅列では分からない。
――大学は、どんな科目で受験されたのですか。
和田 英数国で私立を受験しました。
――大学に入って歴史に興味をもつきっかけになったのは何だったんですか。
和田 大学の夏休みに『竜馬がゆく』を読んだのがきっかけです。僕の“竜”という名前は竜馬から取ったんだと小さい頃から言われていたので、読んでみるかと思って読んだのが始まりです。これが面白くて土佐(高知)に行ったり、京都に行ったりしました。史跡巡りも始めて、どんどん歴史小説を読んでいきました。読んではどこかへ行き、という感じでした。
――最初は司馬遼太郎を読むことが多かったのですか。
和田 そうですね。最初は幕末を描いた司馬遼太郎の作品で、それから黒沢映画に凝りました。原作の山本周五郎を読んで、司馬遼太郎を海音寺潮五郎がほめていたという逸話を知って、海音寺潮五郎を読みました。それもまた、面白かった。この3人が僕の敬愛する作家です。
――『村上海賊の娘』を読んだ時に、ストーリーから一時離れて、その土地や人物についても面白く語ってくれるところは、司馬遼太郎のようだと思いました。和田さんらしいと思ったのは、例えば、主人公の景姫が敵に斬りつける場面の描写です。映像のように目に浮かぶんですね。
(最強の敵となる)眞鍋七五三兵衛なんか、ターミネーターのような感じがしました。
初め、これは、和田さんが脚本家だからかなと思ったのですが、『のぼうの城』のオリジナル脚本完全版を読んだら、脚本って、ほとんど台詞しか書いていないんですね。あの表現は脚本家だから書けるわけではないということが分かり、和田さんのオリジナリティーはどこから来ているのだろうと、思いました。
和田 実は脚本を書く時も、イメージはあるんですよ。脚本には演出部分のことは書かないという作法があります。演出は、映画監督が考えることだからです。例えば殺陣(たて)のシーンでも殺陣師と、どんなシーンにするかを練っていくのはあくまで監督なんです。脚本家はそこまで踏み込んではいけないという礼儀があるんです。だから、書いていないだけなんです。でも脚本を書く以上はこういうシーンにしてほしいというのは僕の頭の中にはあります。小説のときにはそれも、全開にして書いているということですね。
――まさに映画を作るような感覚で小説を書かれているんですね。
和田 文字で演出しています。こういうタイミングで、こういうような絵が入って、ぱっとカットが切り替わって、こういう動きをしましたというのを文章にするとどんな感じかなと考えるんです。スピード感も読者には理解してもらいたいので、アクションシーンなどは短いセンテンスで、畳み掛けるような感じで書きます。
――小説を書く時も意識されているのは映画の脚本ですか。
和田 僕は映画が好きなので映画の脚本を意識しますね。2時間くらいのなかで収まる物語というのが一つの形としてあります。村上海賊はそのまま映画にしたら5時間くらいになってしまうと思いますが(笑)。
――朝の、連続テレビ小説のようなドラマの脚本を書いてくれと言われたら書きますか。
和田 僕はそういう形で自分を鍛えていないんです。脚本のコンクールももっぱら映画用に送っていました。テレビ用のコンクールは1時間くらいのドラマを想定して書きなさいということで枚数制限もありました。映画は2時間くらいの枚数で書きなさいという制限があるんです。もっぱら僕は2時間くらいという制限で脚本を書いてきましたから、ずっと長いこと書いていくって、どうすればいいのだろうと思います。いま、そんな依頼が来たら、途方に暮れると思います。
でも、僕に脚本を依頼する人なんていなくなってしまいました。まるっきり小説家だと思われています。
――『村上海賊の娘』を映画化するときは、当然、脚本も書かれますよね。
和田 ええ。実は小説を書くに前に、一度シナリオに起こしているので、それをブラッシュアップして使うことになるでしょうね。
――実は『のぼうの城』は先に脚本があって、それを映画化するために知名度を高め、資金調達をうまくする必要があって、小説を書かれたという裏話を『のぼうの城』オリジナル脚本完全版で読みました。でも、演出部分を全開した小説を書いた後では、監督はやりにくくなるのではないでしょうか。
和田 そうですね。脚本から小説にするときにディテールをかなり書いて、それが話題になって売れたので、監督にはちょっと困ったなというのはあったかもしれませんね。
――『村上海賊の娘』を映画化すれば面白くなるとは思いますが、監督がそのなかでオリジナリティーを発揮するのは、脚本しかない場合と比べて難しいかもしれませんね。でもキャスティングでずいぶん映画は変わりますから、それほど苦労しないのでしょうか。
和田 『村上海賊の娘』は映画化の話もあり、主演女優も考えなくてはいけないのですが、僕は当て役でシナリオを書くことはないので、だれがいいとか言うのは基本的にないんですよ。でもなんか考えは持っていた方がいいのかなと思って考えたりはしているんですけれど、難しいですね。ちなみに、小説では景は醜いと言われていますが、現代から見れば美人です。
――『村上海賊の娘』はアクションシーンが多いですが、何か(格闘技とか)やっていらしたのですか。
和田 ほとんど自分でやったことはないです。
――『村上海賊の娘』の参考文献はたくさんありますが、歴史小説を書くのは大変なんですね。どれくらいかかったのですか。
和田 取材に1年かけて、シナリオに起こすのに1年かけて、連載が2年ぐらいで、半年くらいかけて直しました。4年半ですね。
――取材は1年なんですか。文献を読むだけでも大変ですよね。古文は得意だったんですか。
和田 普通でした(笑)。人並みです。古文書もがんばれば読めるものです。
――記者の経験もあるのですね。
和田 繊維ニュースというタブロイド判の新聞の記者をしていました。会社名はダイセン株式会社っていいます。
――記者の経験は脚本や小説を書くのに役立ちましたか。
和田 役に立ちました。一つはいろいろなところに取材することが簡単にできるようになりました。フットワークが軽くなった。素人の時は人に取材するのは敷居が高かったのですが、新聞記者になって名刺一枚でどこにでも行けるというのを経験すると、分からないと、とりあえず、行っちゃえという感じで取材に行けるようになりました。
文章的なことでいうと司馬遼太郎の文章って、新聞記者の文章だなって思いました。『司馬史観』というのがあって、自分の主張があるのですが、それは私が言っているのではなくて、歴史上のこの人が言っていますと引用する。それってまさに新聞のまとめ記事のようですよね。記者は実は言いたいことを言っているんだけれど、その傍証として識者たちがこんなことを言っていると引用しますから。
――和田さんもその手法は使われているのですか。
和田 使っています。
――小説にはテーマがありますが、和田さんの小説は、テーマ云々を考えなくても、とにかく面白い。それはなぜかなと考えたのですが、例えば和田さんが現代小説を書いていたら、テーマは設定せざるを得ないと思います。でも、時代小説ですと、事実の部分が多くて制約はある一方でと、発掘した事実などもあって、テーマを前面に出さなくても面白く書けるのかなと思いました。
和田 小説はまず面白くなければいけないと思って書いています。では何を面白いと読者や観客が言ってくれるかというと、そのために必要なファクターっていっぱいあるんですね。そのなかの一つがテーマであり、あとは、矛盾のない、破綻のない物語だとか、登場人物の魅力であるとか、史実をしっかり調べていますとか、そういうようなことだと思うんです。ただ、それらはあくまで材料に過ぎなくて、テーマでさえ材料に過ぎない。読んでくれた人が面白いと思ってくれれば十分だし、それこそがまさに狙いです。書いていて、音楽的な快感があるようなものにしたいと思います。いい音楽って何回も聴きたくなるじゃないですか。本当に面白い小説って、あの快感が味わいたいからと、何回も読んでしまう。
――和田さんが時代小説を書かれるのは、まずは関心があるからですか。自分が表現したいことが時代小説の形だと表現しやすいとか、何か、別の理由もあるのでしょうか。
和田 戦国ものは読者がいる限り書いていこうと思います。関心もあるし、その時代が僕は陽気な時代だったと思うので、書きたくなります。江戸時代になると、藤沢周平的な、ちょっと物悲しいというか、抑圧されたような感じがあります。戦国時代は、勝手気ままに上司に文句を言ったりする人たちばかりで、江戸時代の武士とは毛色が違うんです。そういう陽気さ、明るさが、僕は気に入っていて、書いています。あとは僕はアクションものが好きなんです。先ほど、ターミネーターとおっしゃいましたが、ターミネーターは大好きで、日本でそういうものができないかな、と思ってシナリオも書いていたんです。当初は現代物を書いていたんですけれど、現代でアクションものというのは、はまらないんですよね。刑事とか暴力団とかは、所詮は一般の人にとってはあまり関心のない対象です。歴史のなかで戦国というと、日本人にはなじみがあるし、戦があって当然だし、調べてみると、アクション映画に出てくるようなド派手な人がいるんです。そういうのは便利と言えば、便利ですね。
現代物で際立った人物を描くのは、ほぼ無理なんです。『こんな人いないじゃん』ってみんな思うし。違和感を感じてしまう。でも、戦国ものでそうした人物で出てくると、ああ、そうかもね、っていうふうに自然に思えてしまうところがある。
―—戦国時代の日本人は、日本人にもこんなところがあったのか、と感じさせてくれますね、
和田 それは僕も思っています。日本ってこんな島国なのに、剽悍(ひょうかん)な人間たちがすごくいたんだなと思います。それが日本人の本来の姿だったのかなあとも感じます。その感じは僕にとって新鮮でした。
――読んでいて、昔のそういった自由さに憧れることができるという点では現代的なテーマにも通じますね。
和田 ただ、僕が物語のなかで大事にしたいと思っているのは、400年前の感覚と、現代の感覚はまるっきり違うということです。死生観が全然違います。全然違うんだと言うことを実感してもらいたいと思っています。21世紀に生きていて悩んだりしているけれど、時代が違えば全く悩まなくていいことだったりする。小説を、視点を変えるきっかけにしてもらえればと思います。
――全然違うのですか。
和田 史料などを読んだりしていていると、戦国時代の人にとって、命は軽かった、という感じがします。現代の我々から見ると恐ろしいことなんだけれど、その人たちにとっては普通のことなんでしょうね。そういうような感覚だから、そういうような人物として書こうとしているんです。登場人物を現代風に解釈しないというのを僕は鉄則にしています。
例えば現代風に戦国の世を書くと、平和の訪れを待っているとか書きがちなんですが、この時代の人ってそんなことは考えていないですから。戦はあって当たり前で、やる以上、勝たなくてはいけないとか、思う人たちなんです。
――しかし、当時の価値観まで表現していくというのは大変な作業ですね。
和田 書かれている史実も大事なんですけれど、その時代の人がどういう空気の中で、どういう感覚で生きていたのか、ということを調べるのも、大変重要です。戦国時代のエピソード集みたいなものもあって、そういうものを読んだりすると、ああ、こんな感じだったのだな、というのが分かります。
――『村上海賊の娘』を読んでいても、一つひとつの戦いでも、ああ、こういうふうに考えるのかというのが分かりました。
和田 例えば強敵が現れたとします。現代であれば、『やばい』とか『恐ろしい』とか思うのでしょうが、当時はそれを討ち取ったら大変な出世ができるので、『よっしゃ』っていう感じなんですよ。その感覚って、我々と180度違うから、それをきちんと書きたいと思います。スポーツ感覚もあって、敵がフェアプレー、ファインプレーをすると、あっぱれ、みたいな声が出てくる。それも我々が持っている戦争の感じと違いますよね。そういう違いを楽しんでもらいたいし、そうした感覚を実感してもらいたいですね。
――『のぼうの城』では石田三成が好意的に描かれている気がしますが、歴史的な史料でも、バイアスがかかっていたりしますね。そうしたことにも気をつけているのですか。
和田 忍城の話って、史料のなかでは三成が悪く書かれているんです。「水攻めも失敗して、戦が大変へたくそでした、忍城型はそれに戦としては勝った」という話なのですが、そんな話の何が面白いのだろうと思いました。三成がちゃんとした人で、ものも見えている人であるからこそ、強敵なのであって、そういう人物に勝ったからこそ、忍城の人はすごいわけです。石田三成はそれなりにものが分かっていた人と言う解釈も成立するので、そういう人物として描きました」
――『村上海賊の娘』の主人公を女性にしたわけはあるんですか。
和田「最初は海賊とは真逆にいる人を主人公にしたいと思い、だったら女性かな、と考えました。村上武吉という有名な海賊がいたんですが、それに実の娘がいたら書こうと思い、それが見つかって、書きました」。
――『のぼうの城』の甲斐姫も武術が達者ですが、そういう人が好きですか。
和田 好きです。あと、物語の登場する人物に躍動感がなかったら、物語が転がっていかないという当たり前の理由でもあります」
――富士高校の女性も元気ではありませんでしたか。
和田 都立高校なのに男女が半々で、確かに女性たちは元気でしたね。いい高校でした。でも高校生の女子って、みな元気ですよね(笑)
――女性を取り上げたことと高校生活はあまり関係ないようですね(笑)。高校時代はクラブ活動はやられていたのですか。
和田 恥ずかしながら、やっていませんでした。早く帰ってビデオ借りて映画ばかり観ていました。
――今回、『村上海賊の娘』は100万部以上売れて、本屋大賞と吉川英治文学新人賞を取られましたが、それぞれどんなお気持ちだったのですか。
和田 本屋大賞は読者目線で選んでいるというか、読者の延長線上にあるという感じがする賞なので、いい賞だなと思いました。
老舗の文学賞は、取ってみて分かったのですが、格別な感じの出来事でした。選考委員の先生にお会いする機会あったのですが、小さいころから知っている名立たる作家がいて、僕の小説を読んでくれていて、旧知の人間のように話してくださったので感動しました。
――本屋大賞でお顔もよく知られるようになりましたが、髭はいつごろからはやされているのですか。
和田 サラリーマンのころからかな。
――ご趣味は?
和田 ほんと、無趣味なんです。唯一の趣味が史跡巡りだったのですが、それも趣味ではなくなってきましたし(笑)。コンクールに脚本を送っているときはそれがお金になるわけではなかったので、趣味と言えば趣味でしたね。
――お父様が因島に子供を連れて行ったり、やはり史跡巡りが好きだったのですか。
和田 当時は、旅行と言えば、名所旧跡しか行く場所がありませんでしたから。娯楽施設のようなものが発達していなかっただけだと思いますが。でも父は教員免許をとって社会を教えていた時期があったようなことも言っていました。史跡とかは嫌いではなかったのでしょうね。
――お父様はお元気なんですか。
和田 もうリタイアしていますが、受賞を喜んでいました。
――大学は早稲田の政治経済学部。
和田 テレビ局に行きたかったので、昔からマスコミに強いと言われた早稲田の政経を目指し、一浪してがんばって通りました。
――テレビ番組の制作会社に入られましたが、ちょっと、思った職場とは違ったのですか。映像づくりもお得意で、そのまま制作会社にいられてもおかしくなかった気もしますが。ゆっくり考える間もなく仕事がくるのが嫌でしたか。
和田 そうですね。ただ、体動かせ、みたいのが合わなかったんですね。4年半もかけて1冊書いていたらバカと言われそうなところでしたから。
――これまで、紆余曲折があって、いまがあると思うのですが、結果的にはよかったのでしょうね。
和田 結果的にはよかったんですが、この先どうなるか分からないので(笑)。
――紆余曲折があっても、和田さんは「これがやりたい」ということがあったから、いまがあるような気がします。
和田 新聞記者をやり始めたのも、脚本をコンクールに送るため、食うためでした。給料をもらうんだったら脚本を書くのに役立つように、書く仕事を選びました。ずっと映画に関わっていきたいと思っていましたね。それがひょんなことから小説を書くようになった。ずっとつながってはいるんですけれど、形は徐々に変わってきた気がします。でも“思い”はずっとありました。
――ありがとうございました。
和田竜(わだ・りょう)氏
1969年大阪生まれ、広島育ち。都立富士高校卒(1988年)、早稲田大学政治経済学部卒。2007年『のぼうの城』で小説家デビュー、同書は累計200万部(単行本と文庫)を超えるベストセラーとなり、2012年映画公開された(脚本も担当)。著書に『忍びの国』『小太郎の左腕』『戦国時代の余談のよだん。』があり、『村上海賊の娘』は小説第四作となる。