会長挨拶

時を越えて降り立った折鶴

清友会 会長
須藤隆二(高34回)

日頃より清友会の活動にご理解とご協力を賜りありがとうございます。

大阪市中央公会堂(中之島)の向かい側の河岸にひっそりと佇む銅像の人物をご存じでしょうか。
關一(せきはじめ)氏。大正から昭和初期にかけて、第7代大阪市長として数々の都市計画を立案実行し、「大大阪時代」と呼ばれる大阪の発展期の基盤を築いた功績が有名です。しかし、その人物像は意外と知られていなかったようで、近時になって、大阪市立大学(關市長時代に創立)の方々が中心となり、關氏ご本人やご家族の日記を紐解く研究が進められているようです。日記によると、關氏の4人の息女のうち3人までが清水谷高等女学校の出身だそうです。正確には3人のうち長女の靜枝さんは、残念ながら3年在学時にご病気で夭逝されました。今からおよそ100年前の大正7年(1918年)10月のことです。その早すぎる別れを惜しんで靜枝さんの遺稿集が編纂され、ご家族から女学校に寄贈された、と日記にはあります。「折鶴」と命名されたその遺稿集が、大阪市立大学の図書館所蔵の古書の中に発見されたのも最近のことです。先日、その複製版を清友会にご提供いただきました。靜枝さんの手による日記、詩歌、戯曲などがまとめられたもので、一人の女学生の目からみた日常生活が生き生きと描かれ、往時の母校の様子が偲ばれます。なにより心を動かされたのは、この遺稿集のタイトルにもなった、最期の病床で記された一篇の詩でした。「病床で時間を持て余し、薬の包み紙を無意識に折ったり畳んだりしていたら、ふと気づくと掌中に小さな折鶴がちょこんと座っていた。思えば幼いころから数え切れないほど折り慣れ親しんだ折鶴よ、その幼友達が病気の私を慰めるために飛んできてくれたのね。」
そんな内容です。まるで折鶴が100年の時を越えて降り立ったかのようで、少女の寂しさ、諦念が痛いほど伝わってきました。靜枝さんが他界された約5年後、關一氏は助役から大阪市長となり、以後大阪の発展に尽くされます。この關市長を大阪市に招聘した前の第6代大阪市長池上四郎氏の息女紀子(いとこ)さんも清水谷高女出身です。秋篠宮妃殿下紀子(きこ)さまのご祖母にあたる方です。
私達が受け継ごうとしている清水谷とは、当時の大阪でどのような存在だったのか、遺稿集「折鶴」に触れたことは、今一度そのことに思いを致す機会となりました。

2021年、清水谷は創立120周年を迎えます。
2年後に控えた創立120周年記念事業の実行委員会が先日、学校、PTA、清友会の合同で発足しました。いよいよ本格的に準備活動を始動させます。
清友会の皆様におかれましては、これまでにも増して母校に目を向けていただき、120周年記念事業の成功と母校の発展のために、なにとぞご支援ご協力を賜りたくお願い申し上げます。