創立100周年事業をふりかえる会
2月26日、富士高校の創立100周年事業に携わった関係者が集まりZoomによるオンライン会議で「100周年事業をふりかえる会」を行った。100周年事業は2015年の準備委員会発足から大人の文化祭まで6年越しで行われた。大勢が集まり飲食もする総会/祝賀会はコロナ禍で中止とせざるを得なかったが、他の事業は、ほぼ期待通りの成果をおさめた。この日は若竹会役員会に10年以上関わった落合惠子さん(27期)が司会進行を務め、それぞれが大人の文化祭にかけた思いを発し、今後にどうつなげていきたいかを語った。「100周年事業でできたつながりを土台にしたい。これが始まりだ」「まだまだ道半ば。やりたいことがたくさんある」。2時間半の会合で未来につながる発言も聞けた。その雰囲気も伝えるため、文章で会議を再現する。(文責・高校27期/相川浩之)
落合: 横山会長、開会にあたって、ご挨拶をお願いします。
横山雅之(27期): 本日は『100周年事業をふりかえる会』ご参加いただきありがとうございます。コロナ禍でなければ一堂に会してお話をしたかったのですが、100周年の事業も大方終了ということで、節目の会議をセットさせていただきました。どうぞリラックスしてお話をしていただければと思います。
振り返れば2015年、その時点で私は(役員会に)いませんでしたが、創立100周年事業検討委員会が発足しました。そこで出していただいたご意見をもとにして、2018年以降は、若竹会を中心に実行委員会を作って具体的な事業を進めてまいりました。
皆様方から大変なご尽力をいただきました。まずはお疲れ様でした、と申し上げます。誰もが予想しなかった新型コロナウイルスの感染拡大があり、若竹会の100年に一度の事業が大変な影響を受けました。総会/祝賀会は残念ながら中止になりましたし、大人の文化祭も1年延期になるなど、必ずしも予定通りにはいきませんでした。しかし、会員の皆様にお願いしていた募金は目標額には到達しないものの、4200万円を超える大変大きな金額になりました。のちほど、報告があると思いますが、100周年を記念して計画した、それぞれの事業については所期の目的を達することができたのではないでしょうか。
皆様のご努力のおかげで昨年の11月には1年延期になりました大人の文化祭が開催され、大勢の会員の皆様が参加をして、成功裡に終わりました。大人の文化祭を企画、実行された飯島委員長はじめ、献身的に取り組まれた多くの関係者の皆様に心から感謝を申し上げます。
その他のいろいろな事業についてもご報告があると思いますが、コロナの直撃を受けて大変な状況下で実施した100周年事業は、全体として成功したと評価しています。
本日は100周年事業としてどのような取り組みが行われたのかをご参加の皆様と共有をして、ふりかえりをしたいと思っています。
落合: 横山会長の前の前の会長をされていた谷畑充先生(9期)にお電話でお話をうかがったところ、本当に喜んでいらっしゃって『皆さん、よくやった』と褒めてくださいました。そして『遠慮なく、手前味噌でいいから、自信を持って、皆よくやったんだと、発信してください』と話されていました。今日は自慢する会だと思って、皆さん、こんなにやったんだと報告していただきたいと思います(笑)
では、各ご担当者に事業報告をしていただきたいと思います。事前に、各自5分程度とお願いしていますが、報告が一番最後になる飯島さんにたどりつくまでに時間がかかりすぎないように、という配慮ですのでよろしくお願いいたします。飯島さんはたくさん話していただいて結構です(笑)
それでは各事業について報告をしていただきます。まず上瀧さん、募金と奨学金について、お願いします。
上瀧守(22期): 募金などの話の前に最初に言いたいのは、この100周年の記念事業を最初に立ち上げたのは相川さんと落合さん、そして反中(章子)さん(23期)だということです。2014年の秋、相川さん、落合さん、反中さんから私に声がかかったんです。特に相川さんは100周年をなんとかしなければいけないと思っていたようです。そのとき、僕は役員でもなんでもなかった。なんとなく一本釣りされて相川さん、落合さん、反中さんと、どこかで4人で話したことがあるんです。それがスタートでした。相川さんは当時、上野校長先生と話して翌年の春に第一回の会議を校長室でやることをセットしていたんです。それが2015年の4月の準備委員会です。それまでに事務的に詰めていって、会議が開かれた。
まず募金の話をします。募金は60周年の時にもやっていた。あの時は1000万円とちょっと集まった。今回の目標は3000万円くらいかなと思ったのだけれど、横山さんから言われて5000万円を目標額にしました。その募金の目標の中では、やはり学校への支援がポイントではないかと意見が出て、奨学金制度の創設を項目として入れました。
募金の委員会と奨学金の委員会はメンバーが一緒でした。奨学金の話を少しすると、三鷹市立第一中学校の校長先生をしていた野瀬博さん(26期)がワークショップ(2016年7月開催の『創立100周年をみんなで考えるワークショップ』)のメンバーに入っていて、そこで私が話をして、奨学金の委員会をやってくれとお願いしたんです。そうした人のつながりをベースに発足した募金、奨学金の委員会はとてもうまくいったと思います。
募金のポイントはある程度の金額を目標にすることと、学校支援をメインにするということでした。奨学金は募金の目玉でもあるし、学校に対する支援というのが若竹会の目的の一つに挙がっている。若い学生さんたちを支援するということでは、単に教材を寄付するとかといったことだけではなく、もう少し何かしたいなと思いました。
僕の同期が、『高校生のときに、クラブ活動で夏の合宿に行こうと思ったら、お金がないから合宿には行かないというメンバーがいた』と話してくれました。当時もそういう子がいたんだなと知り、今もいるんだろうなと思いました。そうした個人的思いもありました。
奨学金は野瀬さんががんばってくれて、その後矢部(文彦)くん(22期)が育英奨学金の実施委員会の委員長をやってくれて、動き出しました。
奨学金は今のところ、順調に支給できています。
落合: 質問はあとでまとめて受けますが、今聞いておいた方がいいと思うことがあれば、適宜してください。
いま、上瀧さんがご説明されましたが、会議を重ねられていましたね。お金を集めるって、本当に大変なことだなとしみじみ思います。事務的な作業も多いですし。お疲れ様です。
反中: 奨学金を始めてから、とても変わったなと思うことが二つあります。一つは経営企画室の方が非常に好意的に接してくださるようになりました。もう一つはPTAに若竹会の奨学金のことが周知されていて、同窓会が在校生に対してそういう活動をしていることを大変評価していると感じています。この事業はやるのとやらないのでは大きく違うということがわかりました。
落合: 相川さん。上瀧さんも言及された委員会の話をまず、お願いします。
相川: 簡単におさらいをさせていただきます。100周年事業については、若竹会の通常の組織で取り組むと、前例踏襲とか横並びとかになりやすいと思いました。他校の同窓会がやっていること、過去やったことを参考にする形では、富士高らしい100周年事業にならないと考え、クリエイティブな考え方をする方を委員としてお招きしました。飯島章博さんとか芳根聡さん(ともに31期)に入っていただいたのはそうした狙いでした。一方で、増山秀人さんと反中章子さん(ともに23期)は創立90周年の時も記念DVDを作る事業をやられていましたし、上瀧さんも記念DVDの中に登場されていましたので、こうした昔から周年事業に携わっていた方にも入っていただきました。
初回の会議は2015年の4月に開かれました。振り返ってみると、最初の挨拶で、増山さんは、映像のアーカイブ、第五高女の記念碑、富士と第五をつなぐ管弦楽の演奏――などをやりたいとおっしゃっていて、それが全て実現している。飯島さんも『パーティーをやるだけでは変わりばえしない。もっとクリエイティブなことやりませんか』と話して、その時点で、芳根さんとともに『大人の文化祭』を提案されているんです。初回の会議で6年の間に実現することがすべて言及されていたというのはすごいなと思いました。
そういう奇跡的なことが100周年事業では起きました。当時の上野校長も、校長室を提供してくださって、学校の中心で議論ができました。皆さん、すごく、やる気が出たみたいでした。実は反中さんと飯島さんは、委員就任をお願いしてから、いろいろ悩んだようで、OKの返事をくれるのが一番遅かった。でもそういう方々が最後のイベントまで100周年に関わってくれたというのがとても面白かったです。
この委員会でかなり議論をしましたが、途中で小久保さんがコンセプトをちゃんと決めないといけないと提案され、2016年7月ワークショップを開きました。その中で「富士DNA」という言葉も出てきました。
そして、各事業がだんだん具体化されてきて、2018年6月に実行委員会が立ち上がり、それぞれの担当者が走り出しました。コロナでの延期も含めて6年間、最初の頃からみな波長が合って、最後の大人の文化祭までやり切れたんだと思います。
落合: その時、当時の須知会長が準備委員会のメンバーだったんですが、今回お電話してみたところ『すごく理にかなった提案が出てきて、とても安心して見守っていました』とおっしゃっていました。『それらが無事に済んでよかったですね』と言ってくださいましたが、『個人的には体調がすぐれず、記念碑のお披露目式や大人の文化祭などは出席がかなわず、残念でした』とおっしゃっていました。
委員会のメンバーだった安倍宏行さんや小久保隆さん(ともに26期)にもお声をかけたんですが、お二人ともお仕事が忙しく、今回は欠席となりました。安倍さんは『これからも個人的にできることがあれば、またご協力します』とおっしゃってくださいました。小久保さんは大人の文化祭のときに会場でお会いしましたが、出演者ではなく、音響担当として、裏方仕事で忙しくされていて、その姿に感動しました。2015年の会議からきちっと出席してくださり、最後はそういう形で見守ってくださったんだなと思いました。
落合: 相川さん、次に記念誌についてお願いします。
相川: 記念誌については委員会でも、一番議論しました。安倍さんとか、神津(伸子、31期)さんとか、後で関(薫、26期)さんも入っていただき、議論しました。ただ、実際にものを書く段階になると、ライターさんがなかなか集まらなかった。フリーの方が多いので、時間がかかる仕事は、ある程度謝礼がないとできないという声が多く、ボランティアで2人には書いていただきましたが、結果的にはライターをしたのはほとんど私でした。あと反中さんと榊原さんが原稿を相当書いてくださいました。落合さんは一緒に取材先を訪ねて撮影をしながら、質問をしてくれました。ただ、副編集長(誰ですか?)の意見はかなり取り入れました。執筆したのは少人数でしたが、多くの人のコンセプトが入った記念誌になりました。
今後の人のために、残念だったことも話しておきたいと思います。先生の名授業を紹介するというアイデアがあり取り入れたかったのですが、日の目を見ませんでした。先生方が最近はあまり長く富士に勤務せず、かつての美術の佐藤美智子先生のような方が少なくなっており、多くの卒業生に関心を持っていただく形で再現することはかないませんでした。会報で上瀧さんが先生の近況をはがきで聞くという企画を手がけられました。工夫すれば『先生』という切り口でできることもあったのかもしれませんが、今回は断念しました。
あと、クラブ活動についても取り上げようと当初は思っていました。でもクラブのOB/OG会はずっと一つの組織として続いているものが限られていまして、ある顧問の先生の時代に限った集まりも多く、取材が容易ではないと判断、諦めました。
神津さんはスポーツ関係に強いし、クラブ活動について書きたいとおっしゃっていたのでお任せしようと思ったのですが、編集の時期に網膜剥離となり、無理はさせられないと断念しました。
現役生の茶道部とか陸上部、薙刀部などを取り上げることも検討しましたが、特定の部だけを取り上げるのは問題が出そうと考え、やめました。
企画として面白いものはたくさんあったのですが、いざ取り上げようとすると、形にするのが難しいものもあります。早くから計画して、取り組まないと難しいですね。
大人の文化祭は大勢の卒業生を巻き込んでいましたが、記念誌に関してはあそこまで大勢を巻き込むことは残念ながらできませんでした。本当はもう少し『参加型』にしたいなとは思っていました。そうした態勢も含め、110周年はこれからの人たちにがんばっていただきたいと思います。
増山: 90周年の時に集めた資料なんですが、映像アーカイブの中に16期の方が2人の先生の授業を再現したものがありました。教室を借りて、先生をお呼びして、昔やったような授業形式を再現していました。これは相川さんが言われた名物授業の企画に近いのではないかと思いました。
相川: それ、いいですね。90周年の記念誌はDVDを付けましたけれど、110周年は、映像が残っていたら、それを入れるというのは手かもしれませんね。文章で名物授業を再現しようと思うと難しいですが、映像を上手く使えばできることもあるのかもしれませんね。
10年後はマルチメディアの形で記念誌を出すかもしれませんので、増山さんのおっしゃる映像との連携はもっと考えてもいいのかもしれません。なるほど、と思いました。ありがとうございました。
増山: アーカイブは道半ばなんですが、もう少し整理していけば、いろいろなものを皆さんにお伝えできるかもしれません。例えばなぜ11月5日が富士の創立記念日かということがわかるオープンリールのテープも残っているんです。それもデジタル化できれば、面白い資料になると思います。
相川: 増山さんと反中さんは90周年から記念事業に関わっておられますが、110年も続けられそうですね(笑)
落合: 谷畑先生は、記念誌もほかの学校でやってないようなことをやっていて『よくやれたね。びっくりしたよ』とおっしゃっていました。
落合: 次は増山さん、お願いします。
増山: 第五高女記念碑については会報やホームページで紹介していますので、今回はこれまで触れていなかったお話をします。まず事業に取り組んだ思いです。私は高校時代に火の不始末で自宅を全焼させてしまったんです。一方、私の母は浅草の近くに住んでいたんですが、東京大空襲で家が完全に燃えてしまいました。そして1945年の4月14日に第五高女の校舎が全焼してしまった。いろんな手記を見ると、女学校の生徒さんたちは学校に馳せ参じて、泣いたということです。私も火災を経験してわかるのですが、すごく大きな喪失感があったのだと思います。現在は歌舞伎町の華やかな街が残っているだけで、我々の先輩たちがそこにいたという青春の証はないんですね。ですから、何らかの形で、そんな思いを込めた第五高女の碑ができればいいなと思いました。
現地に行ったとき、碑を建てた今の場所がなかなか見つからなかったのですが、そこに記念碑があれば、皆さんが間違いなく見つけられる。そういう意味で記念碑は今後も皆さんに役立ててもらえると思います。
記念碑は墓石みたいな感じです。飯島さんからは違ったデザインのご提案もあったのですが、その公園は弁財天を祀った境内のような場所なので、モダンな記念プレートよりもあのような記念碑が合うと考えました。シンプルではありますが、末長く、100年以上もつと思いました。上瀧さんが、あそこに増山の骨を埋めたらどうかとおっしゃっていましたが(笑)
上瀧: そんなこと、言ったっけ?(笑)
増山: 骨を折って作った場所に、骨を埋めれば、第五高女の先輩方と楽しく過ごせるかなと思います(笑)
増山: ここからが本題なんですが–。記念碑は2019年の11月に建立してお披露目の式をしたんですが、地盤の関係で雨が降ると水たまりができる。そこで、水はけを改善しようと、2020年10月に改良工事を行いました。
記念碑の周りに一辺が10㎝の立方体の石を並べまして、盛った土が流れないようにするとともに水はけをよくしました。
今後の展望ということで、やりたいことがまだまだ残っています。それをお話します。
『ドキュメント記念碑建立(仮題)』という記録映画を作ろうかと思っています。この記録映画の中では第五の記念碑だけではなく、富士高の100周年記念碑についても取り上げます。基礎工事から設置、お披露目の式まで全部撮影しているので、それを残せたらと思います。
二つ目は、第五高女の校舎が焼失した4月14日に高校32回卒吉田裕之さんが始めた第五・富士を歩く会を、記念碑をつないで歩く会として再開したいと思っています。
そして、毎年11月5日(創立記念日)に第五・富士の二つの記念碑の清掃をしようかと思っています。私自身が、率先してやらせていただければと思っています。
5月に行われる歌舞伎町弁財天祭礼、9月に行われる熊野神社例大祭には若竹会としてぜひ出席していただきたいと思います。尾張屋土地、歌舞伎町商店街振興組合との連携は今後も必要ですので、こうした式に出席して親睦を深めることが必要です。
上瀧: いまの話の中で気になったのは清掃、管理です。例大祭をやるときなどに碑が汚れていたらまずいですね。
増山: 例大祭の前には地元の商店街と連携をとって清掃することを考えてみます。墓参りをするときのような感じできれいにすればいいと思います。
落合: コロナ禍でこのところ、お祭りは中止なんですよね。
増山: 2020年、2021年は中止でした。
落合: なかなか見に行けないのですが、第五高女のおうちの方から、記念碑を母と一緒に見に行こうと思っているんですよという声はいくつかありました。
上瀧: やはり、作ってよかったですね。
落合: 直にそういうお話をうかがうと、よかったと思います。90周年のときから増山さんと反中さんは第五高女の卒業生の方達の思いをしっかりと受け止めていらっしゃっているので、それがここまでやられるパワーにつながっているのかと思います。
それでは、横山さん、お願いいたします。
横山: 学校の方の創立100周年記念碑の建立について簡単にご報告します。いま増山さんから第五高女の記念碑の話がございましたが、学校の記念碑を作ることは当初からあった話ではありません。でも、私としては必要ではないかと思いました。
反中さんと増山さんから伺ったのですが、学校が作っている学校紹介パンフレットの中の、学校の歴史の記述に誤りがあった。学校の歴史を対外的に紹介する際に誤ってはいけないと思います。学校の創立から現時点に至るまでの歴史が十分に知られていないというところに問題があるんじゃないかと思いました。学校の記念碑建立の意義は、一つは歴史を可視化するということです。私としては単に『100周年記念』という文言だけでなく、歴史を碑文の形で、だれもが見ることができるようにするというのが重要なことだと思います。
もう一つは、歴史の共有です。生徒、教職員、PTA /保護者、若竹会の会員等々が、第五高女以来の歴史を共有することによって一体感が形成できると思います。歴史の可視化と共有によって、一体感を形作るということが重要だと思いました。
記念碑のデザインですが、恥ずかしながら、私がデザインさせていただきました。第五高女の記念碑とのつなぎを意識することが重要で、同じえんじ色系統の石を使用しました。第五高女の記念碑の除幕式の時に第五のOGの方が『石の色が第五高女のイメージにぴったりだわね』とおっしゃっていました。制服のリボンの色と重なるということで、石の色は第五高女をイメージしています。では、富士をどうやってイメージするかということですが、形を末広がりにしました。形状で『富士』をイメージしたつもりです。
碑文は第五高女以来の歴史をごくごく簡単に記し、合わせて、これまでの3種類の校章を配置して、100年の、第五高女から富士へのつながりをわかりやすく示しました。
どこに設置するかも検討課題でしたが、校長先生ともお話をしていたところ、正門脇に大きな桜の切り株があって、それを撤去するという話がありました。それで、ぜひ、そこに設置させてくださいと校長先生にお願いをして、正門脇の良い場所に設置することができました。
20年6月の理事会で報告をし、その後、東京都知事と物件の贈与契約書を結びました。そういう段取りを経て、2020年11月28日にささやかながら除幕/披露式を実施しました。コロナ禍で生徒さんの参加がかなわなかったのが残念でしたが、2020年中に設置できてよかったなと思います。
落合: 図書などの寄贈についてもお願いいたします。
横山: 去年の11月13日に学校の100周年記念式典がなかのZEROホールで1年遅れで開催され、そこで、学校に、若竹会から目録をお渡ししました。その目録には、若竹会からの記念品として、創立100周年記念碑、創立100周年の校章記念バッジ(中学、高校の全生徒、教職員のみなさんに1000個以上寄贈。デザインは飯島さん)、SSH(スーパーサイエンスハイスクール)の横断幕(文科省からSSHに指定されたことをPRするもの)、図書、木製閲覧椅子を寄贈させていただきました。
落合: 反中さん、お待たせしました。
反中: アーカイブのお話をさせていただきます。先程増山さんのお話を聞いていて改めて思ったんですけれど、この会議に参加している年長の方々のご両親はおそらく戦中派だと思います。でも富士高にいたときには友達と戦争の話なんてしたことはなかったんです。でも60歳ぐらいになると親の戦争のときの話になったりします。私たちは戦争を知らない子供達だったけれども、間接的に戦争が何なのかということを知っている世代なんだなと認識しなければいけないと思いました。増山さんと私の共通項はそこなんだなと思いました。
在学中は第五高女にまったく興味はなく、第五高女の先生に2年間担任をしていただいたんですが、第五高女の話は勘弁してよ、という雰囲気でした。そういう私がなぜアーカイブをやろうと思ったかというと、一つは戦争なんです。初めて第五高女の写真を見たときに、こんな立派な学校が一夜にして焼けてしまう。どういうことなんだと、ものすごく胸に刺さりました。そこが原点になっているのかと思います。かつては第五高女が新宿のほうにあったということくらいしか知りませんでしたが、これからはアーカイブで、語り継いでいくべきことを伝えられると思います。
デジタルアーカイブという言葉を聞いたのが、たぶん、2015年くらいだと思います。90周年のビデオ制作のときにいろいろ富士高の資料にあたって、これをどういうふうに活用すればいいかなとおもったときに、デジタルアーカイブに出合いました。アーカイブする人をアーキビストというんですが、アーキビスト養成講座に通い、資格をとりました。講座のときにどういう動機でこの講座に参加したかを述べる機会がありました。同窓会の資料を整理したいということをいうと、講師が「どこの学校もやりたいと思っているけれどもできていないんですよ」と言って励ましてくれました。まだ道半ばなんですけれど、都立高校として富士高校はデジタルアーカイブをやっていると言えるような段階に早く行きたいと思っています。
いまのところ、アーカイブの成果は二つあります。一つは学校制作の100周年記念誌のグラビアのページの写真をデジタルデータとして提供しました。その時にわかったんですが、学校には資料というものがほとんどないんですね。全く管理していないということがわかりました。今まで記念誌を作るときは、前の記念誌をコピーして作っている感じなんです。例えば歴代の校長先生の顔写真は、学校のどこにもないんです。今回、アーカイブ班で過去の卒業アルバムから全部データをピックアップして記念誌制作の会社に提供しました。これまでよりもずっと質の良い写真が提供できたと思います。
二つ目は大人の文化祭で歴史館というデジタルアーカイブの成果を示す場を得たということです。特に、第五高女と戦争のこと、富士高放火事件の二つを大きく取り上げたことで会員の方の反響も大きかったです。これをこのままで終わらせず、これからも持続させていくような—つまり会員の方が富士高の歴史に興味をもってくれるような活動を続けていきたいと思っています。
その一つとして今年から会員の方に史料アーカイブを利用してもらうことを始めていました。会報やホームページで告知しているんですが、コロナ禍で学校に入れなくなってしまって、申し込みがあっても対応できないという状況です。学校に入れるようになりましたら、実績を作り、報告して、『活動しているんだな』ということを知ってもらい、息長く活動を続けていきたいと思います。
増山: 史料アーカイブの中の映像担当ということで、いくつか補足があります。第五から富士へ繋いだものということで、文言で説明していることのいくつかを映像で残したいと思っています。例えば平和館の鐘、藤棚、敷石などを映像でまとめられればいいかなと思っています。
もう一つが創立90周年の若竹会の総会/祝賀会の映像を撮っていまして、それをまとめ、110周年の祝賀会を担当する方に役立てていただきたいと思っています。
大人の文化祭の映画館の絡みで28期の伊藤俊朗さんという映像のプロと知り合いになりました。映像のアーカイブも若い人を育てないと一気に途絶えてしまうので、現役の生徒に映像の作り方を教えるような交流ができないかと話しました。卒業して若竹会に入った後は、そういう若者たちが映像アーカイブの仕事を担ってくれるといいなと思います。
落合: 2019年の若竹会の部屋は、これから富士を目指そうという子供達の親御さんや在校生の親御さんがたくさん訪れました。そういう場で年表などを掲示したところ、多くの人が関心を示してくださいました。そういう場でアーカイブは活用できると思います。
反中: いま、歴史があるということは学校の価値になっていると思います。子どもを歴史のある学校に入れたいという親御さんの熱意を感じますので、また、富士祭で部屋を確保していただきたいです。歴史館のパネルはとってありますので。
上瀧: 若竹会自体の歴史のアーカイブもぜひ考えてください。若竹会のことがよくわかっていないのは恥ずかしいですものね。
反中: わかりました。項目としては考えているのですが、まだ着手できていません。
相川: 2024年の若竹会100周年に向けて整備することも必要かもしれませんね。
落合: 飯島さん、お待たせしました。
飯島: 大人の文化祭は、富士高校の全盛期を知らない在校生や子どもたちに『富士高校』を知ってもらい、富士のさらなる発展を期したいと思って、開催しました。娘の中学受験のときに、田舎から来ているお母さんたちに『富士高なんか入っちゃだめよ』と言われたんです。ショックでした。うちはカミさんも富士高だから。わかってもらいたかったんだけど、在校生は来られなかったし、校長先生にあまり小学校にアピールしないでくれと言われたので、小学生もほとんど来ませんでした。でも、面白かったなあと思っています。
メンバーにいない、何も手伝わない人が文句をいってくるのがちょっと大変でした。『これは成功者だけのお祭りなんですか?』とか。『もっと普通の主婦も出せ』というんで、『わかりました。紹介していただければ出しますよ』と言ったんですが、そういう人は結局その後何も言ってこない。
仕事館のパネルは推薦があれば、すべて出していました。推薦さえしてくれれば出したんだけど、普通の主婦は『私出ます』とも言わないし、『この主婦を出してください』という人も現れませんでした。
富士高生ってすごい、と思ったのは前日の準備の時に、俺も忙しくてパニックって、各館の看板を適当にきたなく貼っていったんですね。そうしたら、30期の先輩が丁寧に貼り直してくれて。ほとんどしゃべったことがない人なんですけれど。フォローしてくれる人がいてすごいなと思いました。
仕事館にずっといてくれる先輩がいて、出て行く人、出て行く人に『いかがでしたか〜』と元気よく声をかけてくれるんです。ありがたかった。
開催に関わった人は150人くらいだと思います。来場者は翌日のZoom打ち上げをみたら1800人と、俺、言ってるんですけれど、1300人という説もあります。正確なところはわかりません。
お金は322万5283円、クラウドファンディングや広告で集まりました。若竹会から100万円いただきました。今のところ残りが70〜80万円。
DVDに関してはほぼ、できているんですけれど、まだ(映像確認の)返事がきていないものもあるので、今週末で締め切って、3月の頭には予約を取って販売したいと思っています。それと一緒に冊子も作ります。歴史館と美術館を合わせたものを1冊、仕事館とアルバムを合わせたものを一冊考えています。これらとDVDを一緒に販売します。6000円で販売する予定です。
落合: お疲れ様でした。
上瀧: 飯島さん、芳根さん、神津さん、ありがとうございました。飯島さんは2015年から大人の文化祭をやろうと言う気持ちが強く、リーダーシップをとってよくできたと思っています。飯島さんが言っていた看板を付け替えてくれたりする決して派手ではない仕事をやってくれる人たちって、とてもありがたいですよね。芳根さん、そういう人たちでどういう気持ちなんでしょう。
芳根: 31期の仲間って、自分ができることで自然に手伝うという文化があります。それは富士高の文化でもあると思います。40歳を超えて同期会をやったときに気づいたことなんですが。
100周年というのは大きかった。今までの流れとか、未来の流れとか、100周年でしか味わえないようなうねりを感じました。100周年だから出会えた人たちとはいいご縁が生まれたと思っています。こうしたつながりを未来の子供達に渡していけるような運動を途切れることなく、やっていきたいと思います。
100年のことを振り返って100年後のことを考え、世代を超えて共有することは、実は100周年の年に限ることはないんだと思います。後夜祭の実行委員長を務めましたが、そういうことができる土台がしっかりできるまでは、後夜祭は終わらないんだと思います。2024年の若竹会100周年は(土台を作り上げる時期としては)いいころあいかと思います。
落合: ありがとうございました。神津さんは伝えることをお仕事にされていますので、こうしたことをどう伝えて行くか、ご意見ありますか。
神津: 伝えるということで今回、一つ感じたのは、世代を超えた縦のつながりだけでなく、横のつながりもあるんだと思いました。100周年準備委員会に参加し校長室で議論したことなどをフェイスブックで伝えていたらこれから100周年を迎えるほかの都立高校の人が興味を持ってくれて、飯島くんにも話を聞きに来ました。大人の文化祭も見学に来てくださいました。私は、文化祭に参加してすごく楽しかったんですが、もしかしたら内輪で受けていただけかもしれないと思ったりもしました。ところが、第三者的に見てくれた他校の人が『企画の内容もいいし、盛り上がってるし、みなさんがとても楽しそうで生き生きしていた』、という感想をくださいました。縦のつながりだけでなく同じ都立高校という横にも発信できたのかなと思いました。
落合: 私が驚いたのはみなさん、自分ごとになっているんですね。自分の置かれた立場で精一杯やっていらしたのが印象的でした。
相川: 富士DNAって、こういうものなのかなと思いました。やらされている、という感じの人が1人もいなかった。みな、持ち場持ち場で自分で工夫してやっていました。そんな雰囲気になったのは飯島さんの魔法?
飯島: 確かに不思議でしたね。みんな楽しそうだった。でも僕はそういうことの分析はしないんですよ。楽しかったで終わりなんです(笑)。だから、人数も把握していないし、誰が来たかもわからない。
増山: 富士高祭が、こうした富士DNAを形作ったような気がしますね。文化祭で映画館の館長をして、やりながら『自分は50年前とちっとも変わっていないな』と思いました。
飯島: 富士DNAはどこにあるかというと、だいたい(D)、中野に(N)ある(A)んです(笑)
落合: 上手に役割を振っている、というのもあったんではないですか。長い間のつながりもあって。
飯島: ただ、直前になっていろいろ頼んだ人は、卒業して初めて話した人だった。どんな人かよくわからなかったんだけど、タイミングよく来てくれたので、あれやって、これやってと適当にお願いしただけなんですよ。
反中: 大人の文化祭の企画が具体化したときに、音楽会とかエンタメ関係の企画が出てきたので、私は『そういうことだったら、歴史館はやめませんか』って飯島さんにメールしたんですよ。『そんな楽しい企画の中で歴史館はないでしょう』といういじけた気持ちで。そうしたら速攻で、飯島さんからメールが返ってきて、『歴史館をやらないんだったら、大人の文化祭をやる意味はないんです』と書いてありました。私は非常に感銘を受けました。飯島さんの考え方がわかって、それからますます信頼感が高まりました。最後までぶれずに歴史館をやっていこうというモチベーションが高まりました。
飯島: 記憶にございません(笑)
落合: 私は美術館を手伝っていましたが、横尾さんがすごいリーダーだということがわかりました。
飯島: 確かにすごかったね。
落合: 彼女は『作る人だけじゃなくて、美術館という空間を演出する側の人も紹介したい』というので高橋明也さんをはじめ、美術史関係の人にも声をかけたんです。高橋さんは対談にも出てくださることになったのですが、予定していた対談相手が急遽出られなくなってしまい、横尾さんに相談したら、『落合さんお願いします』と言われました。それで、なんでこんなにがんばっているんだろうと思うほどがんばってしまいました(笑)。横尾さんのためならやらなければと思ったんですよ。そんなパワーがある人です。
相川: 有吉さんも人を動かす術に長けた人だと言っていました(笑)。
芳根: 横尾さんは現役時代には文化祭に参加していなくて、『文化祭は大変だけど面白いということを今回知った』と言っていました。高校時代に培ったものだけでなく、これから、まだまだ文化祭デビューする人がいるかもしれません。
相川: 芳根さんだけは『終わった』という感じではなくて、燃え盛ってますね(笑)
芳根: これが始まりだと思ってますんで。100年経って、100年後のことを考える始まりだと思っていますので。こういう運動って一朝一夕では生まれない。こうやってつながったことを始まりにしたいです。
相川: 一つ反省していることがあります。大人の文化祭の資金集めまで飯島さんに任せていたので、『準備委員会でやろうと決めたことなのに若竹会の役員会は冷たくないか』と横山さんや上瀧さんに詰め寄ったりしていたんです。結果的にみると上瀧さんが『勝手にやれ』と言ったのが、飯島さんにはフィットしたんだなと思いました。若竹会がいちいち飯島さんにあれやって、これやってと言ったらこんな感じの大人の文化祭にはならなかったかもしれない。若竹会の事業ではあるんだけど、これだけ大胆に飯島さんに任せられたのはよかった。
横山: お金を出していけばいくほど、口もはさまなくちゃいけなくなる。それはかえってまずいなと思っていました。お金を出すにしても安全・安心の確保といった基本的な部分だけにすることにして、企画的なものは飯島さんやみなさん方の創意工夫を生かす方向がいいと思っていました。
相川: 横山さんは記念誌も編集長を務めた私に全部任せてくれました。
横山: だって口をはさむなと言うから言わなかっただけで。確かに新聞なんかではそうなのかなと思いました(笑)
相川: 最後の最後で発行人としていろいろチェックしてくれて、年表などはずいぶんよくなりました。
横山: 美術の話に戻ると、大人の文化祭がなければ、有吉徹さん(25期)の作品がふたたび日の目をみることがなかったと思います。学校に所蔵されていた大作が展示されてよかったと思います。でも大人の文化祭が終わると、学校の目につかない場所にまたしまわれてしまったことが残念です。
反中: でもあの作品があったので美術館は圧巻でしたね。
落合: あの作品には最初から横尾さんがこだわっていました。
榊原(和加子、27期)さん、会計の報告は理事会でされるのですよね。
榊原: 昨年、ほとんどまとめていますが、大人の文化祭、学校への寄贈、アーカイブの残りの部分など今年の分もまとめて、理事会で報告します。
相川: お金は余った?
横山: 余ったと言うことではありません。育英奨学金の基金を作るというのが当初からの目標だったので、その基金をできるだけ大きくするのが課題だったんです。おかげさまである程度の規模になったのではないかと思います。
相川: 余ったという表現は間違いですね。了解しました。反中さん、横尾さんの個展が近々あるのですか?
横山: 3月9日から小田急百貨店の画廊で開かれます。
落合: 1週間開かれます。大人の文化祭の後、横尾さんは大変でした。お母様が転んでしまったり。彼女も『皆様と100周年事業でご一緒できて楽しかったです』というコメントを寄せてくれています。
塚田(裕司、32期)さんは、今日もできれば参加したかったとのことなのですが、いろいろ用事が重なって出席できませんでした。塚田さんは祝賀会実施委員会の委員長として実行委員会に出てくださっていました。110周年を担当する人へのメッセージをいただいています。『すでに若竹会の改革に向けて若い世代の人たちが動いているようですが、そうでなくても10年も経てば同窓会の考え方も変わっていることでしょう。今回のマニュアルは提供しますが、あまりそれにとらわれず、好きなようにやっていただければよろしいかと思います』とのことです。祝賀会は32、33、34期で祝賀会の実施委員会を運営し、マニュアルもしっかり作ってくれて、彼らに任せておけば実施できるのではないかという段階だったのですが、祝賀会だけがコロナ禍で実施できませんでした。
横山: 塚田さんは京王プラザの担当者とつながりがあって、同期会もやられたように聞いています。京王プラザの担当者は90周年もその前もかな、ずっと若竹会のパーティーをやってくださっている担当者だったとのことです。こういう人脈もすごく大事だなと思います。
相川: 本当に残念でした。フェイスブック上で3つの期の方にインタビューしたんですが、ちゃんと当日の進行表もできていました。80周年、90周年では第五高女の方が紹介されることもなくサポートも十分ではなかった気がするのですが、今回は人を割いてサポートする予定もあったし、素晴らしい祝賀会になったのではと思います。フェイスブックでカジュアルに話を聞いてしまったんですが、本当は会報などで彼らの話を伝えてほしいですね。
上瀧: 時期にはもうこだわらず、できるようになったときに祝賀会やればいいと思います。
落合: 人が集まれない時間がずっと続くと、集まれるようになったときはぐっと盛り上がる可能性はありますね。
相川: 大人の文化祭の時は東京の感染者数は二桁で、もう収束するかと思うような感じだったのでよかったですね。今の状況でしたら開くのは難しかったかもしれません。神様、いるのかもしれませんね。
横山: 確かに下火になっていた時期だったよね。でも9月ごろだったか、コロナの感染防止対策どうなってますかと飯島さんに聞いたら、素晴らしい対策リストが送られてきて、すごいなと思いました。きちんと感染防止対策について詰められているなと思いました。私はそれを見て、これなら大丈夫だなと思いました。そういったところも押さえた地道な仕事をされていたので、ああいう大きなイベントがうまくいったのだと思います。
相川: 飯島さんってすごいなと思ったのは、その日に感染者が出たら、その瞬間に文化祭を打ち切るとおっしゃっていたことです。そしてその後2週間くらい感染者が出なかったことを確認して『文化祭、うまくいったね』と話していました。考え尽くしているんですね。
でも、そんな飯島さんも、コロナ禍で医者を配置するのが難しく苦労されていました。その時に27期の上田みどりさんが手を挙げてくださった。本当にありがたかった。
落合: そろそろ予定した終了時間に近づいてきましたので、上瀧さん、総括をお願いします。
上瀧: 今日はみなさん、本当にありがとうございました。僕らが高校時代、富士高の下校時に流れたのが『風と共に去りぬ』の『タラのテーマ』でした。挫けそうになった主人公、スカーレット・オハラがまた明日があるといっている。苦労することがあっても明日に期待をかける。先ほど芳根さんが土台ができたから未来に向けてこの絆をつないでいきたいという趣旨のことを言われて、まったくそうだな、と思いました。次の人たちにバトンを渡さなければいけない。これからもこうしたきずなを大切によろしくお願いしますといいたいです。
落合: 芳根さんの言葉、しみました。
芳根: ありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。
落合: Zoomの電波状況が悪く、横山さんの音声がつながったり切れたりしている状況です。横山さん、お話できそうですか。
横山: 芳根さんがおっしゃるように、過去を振り返るより、これをきっかけに未来を展望するということは大事だと思います。ぜひ新しい未来を作りましょう。どうぞよろしくお願いします。
落合: みなさん、本日はありがとうございました。