熊本の医学・医療の伝統と歴史を見つめる
宝暦6(1756)年に肥後藩主・細川重賢公が創立し
翌7年に開校した医育寮「再春館」から始まった
常に時代に先駆けてきた肥後医育の伝統と歴史を
一堂に紹介するミュージアム誕生
肥後医育ミュージアムとは
肥後医育には、二つの大きな柱があります。一つは、宝暦6年(1756)、日本初の公立医学校である藩校「再春館」の創設。もう一つは、明治29年 (1896)の「私立熊本医学校」の設立です。この「私立熊本医学校」を、現在の熊本大学医学部の直接の起源としています。
熊本大学医学部同窓会「熊杏会」では、創立120年を迎えた平成28年(2016)11月、「再春館」以来の肥後医育の伝統を後世に残すために、「肥後医育ミュージアム」を開設しました。
「肥後医育ミュージアム」は、全国的な医学教育制度のなかった藩政時代の医学教育から、幕末に西洋医学が導入され、明治政府によって医学教育制度が確立して 今日に至るまでの、熊本における医学教育の歴史的展開を知ることのできる施設となっています。
肥後藩から始まった医学教育の歩み
肥後医育の歴史は昭和4年(1929)、熊本医科大学学長であった山崎正董が編纂した『肥後醫育史』によって全国に知られています。
明治10年(1877)に西南戦争の戦場となった熊本では、宝暦以来の伝統を持つ肥後医育に関する資料が消滅の危機に瀕していました。
明治35年に県立熊本病院婦人科部長兼医学校教授として赴任した山崎はこの現状を知り、すぐに当時の熊本医学会の元老たちに協力を求めて、肥後藩以来の医学教育に関する記録を集め始めました。そして宝暦6年(1756)から昭和3年(1928)まで、約170年間にわたる肥後医育の一大通史を完成させたのです。
肥後医育の幕開け 日本初の公立医学校「再春館」
肥後藩では18世紀中期、藩主細川重賢のもとに藩政改革が推進され、宝暦4年(1754)に人材育成や有能な人材登用を目的とした藩校「時習館」が、同6年には医師を養成するための「再春館」が創設されました。
「再春館」は日本初の公立医学校として、明治3年(1870)までの115年間、肥後医育の拠点となりました。「再春館」では他藩からの就学希望者も受け入れており、肥後医育が当時の医学教育に果たした役割は、藩域を超えた大きなものでした。
肥後医育における西洋医学の導入
明治3年(1870)、藩知事となった細川護久は藩政改革に取り組みます。115年続いた漢方医学の「再春館」を廃止して西洋医学へと転換するため、翌年には長崎からオランダ海軍の軍医であったマンスフェルトを招いて、「西洋医学所(古城医学校)」を設立します。
マンスフェルトの教えを受けたものは総勢130余人。このなかには、世界的細菌学者となった北里柴三郎、東京大学医学部に日本最初の衛生学講座を開講した緒方正規、わが国日本婦人科学会の始祖とされる濱田玄逹など、後年の日本医学を背負う人物がいました。
時代の波を乗り越えた近代医育への情熱
明治7年(1874)「医制」の交布で、医学教育は新時代を迎えます。しかし明治政府の方針が定まるまで、医学教育機関は紆余曲折します。
熊本大学医学部の前身である「私立熊本医学校」が設立されるのは、明治29年のことです。大正元年(1912)には現在の地、本荘に落ち着きますが、その後も「私立熊本医学専門学校」、「県立熊本医学専門学校」「県立熊本医科大学」と形をかえながら、昭和4年(1929)には全国六医科大学の一つ「官立熊本医科大学」となるのです。
守り継がれる医育の炎 医学・医療のグローバル時代
第二次世界大戦と戦後の高度経済成長期は、グローバル化と共に人々の暮らしを一変させて、公害病や生活習慣病といった新たな疾患を生み出しました。しかしこれにより医学・生物学研究が飛躍的な進展をとげて生命科学の勃興と医療技術に革新をもたらしました。
医学教育は研究を中心とする大学院教育と、高度医療技術を習得する卒後臨床教育へと拡大します。熊本大学医学部ではこれに対応して、大学院教育を支える研究施設や研究センターを増設し、かつ臨床教育のためには最先端医療設備を持つ附属病院の整備を続けています。