明治4.7.18 文部省設置。
5.1.17 岡山兵学寮跡に県立「県学」を開設し、和漢洋の三科を置く。
12.3.1 和歌山中学校開設。「岡山時代」始まる。
明治11年1月初めて中学創立の議起こり、和歌山市岡山の和歌山師範学校内に校舎を新築し、翌12年2月に竣工、1月28日和歌山県達乙第22号を以て、和歌山中学校諸規則を定め、生徒100名を招募し、同日「県達丙第45号」を以て中学設立の主義と子弟入学勧奨の事を県民に布達し、3月1日、七等属松山亮を校長兼務に、理学士伊藤新六郎を首席教員として、職員は専任の者3名、他は両校に兼任し、生徒133名を以て開校式を挙げ、師範学校の校舎の一部とを使用して授業を開始した。学科は正則科(普通科にして8級4ケ年の課程)変則科(英語を主として6級3ケ年の課程)予備科(2級1ケ年の課程)の三種に分ける。
13.8. 教場四室を増築し、初めて化理学専用の教室を設ける。
13.10.14 県達甲第207号を以て県立和歌山中学校諸規則を改定公布。
校則及び学科を改正し、変則科を廃止して、生徒230名を以て定員とする。
14.7.29 文部省達第28号を以て「中学校教則大綱」が定められる。(中学校教育の内容・程度を示す規程)
15.5. 初めて卒業生10名に卒業証書を授与する。現在生徒数188名。
次いで文部省達第28号「中学校教則大綱」にしたがい校則を改正し、初等・高等の二中学科とする。
16.7. 松山亮校長兼務を解かれ、師範学校長色川圀士校長に兼任する。
19.4.10 勅令第15号を以て「中学校令」を公布する。
19.6.22 文部省令第14号を以て中学校令第7条に基く「尋常中学校の学科及程度」が定められた。
20.1. 菅沼政經校長兼務を解かれ、県属松山亮校長に兼任する。
前年公布勅令第15号中学校令、文部省第14号尋常中学校の学科及其程度に基き、校則学科を改正して、和歌山尋常中学校と改称する。
師範学校と分離し、元師範学校附属小学校校舎を仮用する。
20.3. 松山亮校長に専任する。
22.3. 岡山校舎より新校舎へ。「岡山時代」終る。
22.3.16 新築校舎竣工、16日落成式を挙げ、17日移転する。「城内時代」始まる。
紀州藩最後の藩主徳川茂承侯爵は、和歌山城内の西の丸(書院、高御殿、能舞台などがあった)跡から砂の丸一帯を和中の校地として寄付、また建築費も負担し、鉄製の門と垣で囲まれたモダンで堂々たる新築校舎(講堂を含む)を建てた。さらに、武道場とその続きに2階建ての寄宿舎も建てた。寄宿舎は各階10室、自習室、食堂、調理場、生徒控室などがあり、その一室に生徒用喫煙室が設けられており、休憩時間にはキセルをもった上級生が「スパスパ」吸っていた。全県下から集まった全校生徒300人中、いつも50人から80人ぐらいの生徒が寄宿していた。西の丸は東に堀、南に鶴の谷、南西に砂の丸(体操場として使用)、北は七番丁に面し、其の位置は市内踏雑の地域と隔たり、構内広く閑静にして環境良好、総坪数9,346坪6合2勺(内9,092坪9合は陸軍所轄地借用、体操場は2,900坪7合を占める)建坪総計883坪5合。
29.4. 第1尋常中学校と改称する。
校長松山亮第二尋常中学校に転任し、県属桂文吾校長に任ぜられる。
生徒の数段々と増加し、規模を拡張し、教室其の他226坪を増築する。
この時代を偲ばせるものとしては、現在駐車場になっている西の丸跡の楠の大木である。太平洋戦争中まで沢山あった楠の大木も空襲により焼けたり、また市役所が新庁舎に移転するさい折られたり、取り除かれて少なくなり現存するものは6、7本である。他は補植されたものである。駐車場入口の楠の大木は当時のもので根元に小さな御影石の石碑がありそれには、正面に明治二十九年卒業生一同、右に楠、左に和歌山中學校と刻まれている。
(この石碑は市が西の丸跡を駐車場として造成したさい埋められてしまっていたのを、昔を知る卒業生の要請により発掘し、元位置に建てたものである。)
30.7. 校長桂文吾休職を命ぜられる。
30.8. 福岡県尋常師範学校長小泉又一校長に任ぜられる。
31. 端艇部(ボート部)誕生。三隻の六人乗り新造端艇(ボート)を購入「伏虎」「龍門」「那智」と名付け、練習を開始した。練習は堀から内川、紀の川と漕ぎ回ったが後には水軒沖から雑賀崎を回って和歌浦湾の海上コースをとって練習した。翌、明治32年春には県下初のボートレースを和歌浦湾で行なった。
32.4. 和歌山県第1中学校と改称し、生徒定員600名とする。
校長小泉又一願に依り職を免ぜられる。
32.5. 高木玄三郎校長に任ぜられる。
33.3.26 文部省令第4号を以て学生生徒身体検査規定を定める。
33.4. 徳義中学校が和歌山第一中学校徳義分校となる。
33.7. 校長高木玄三郎、岐阜県立岐阜中学校長に転任する。
33.8. 香川県立丸亀中学校長清野勉本校校長に任ぜられる。
此の年講堂、教室を増築する。庚子会規定を設ける。
34.3.5 文部省令第3号を以て中学校令施行規則を公布する。
34.4. 和歌山第一中学校徳義分校を県立徳義中学校とする。
34.6. 和歌山県立和歌山中学校と改称する。
34.10. 校長清野勉休職を命ぜられる。
34.11. 和歌山県立田辺中学校長緒方喜三校長に任ぜられる。
36.10.8 皇太子殿下(後の大正天皇)行啓遊ばされ教室での授業と砂の丸での体操(徳義中学・師範学校三校合同)の授業を台覧になった。
37.10.8 皇太子殿下行啓記念式を挙行以後毎年この日に式典を行い、3月1日の和中創立記念式もこの日に合わせて行うこととした。
38.10. 校長緒方喜三死去、教諭生田徳太郎校長事務取扱を命ぜられる。
38.12. 福井県立武生中学校長兼教諭成富信敬本校校長に任ぜられ、教諭生田徳太郎校長事務取扱を免ぜられる。
41. 武道を準正課とし、生徒に剣道か柔道のどちらかを選択させ、毎週二回の練習を義務づけた。
43.12. 砂の丸北の石垣の所、堀に面して木造瓦葺き平屋建広さ約500㎡の新演武場を総工費7,366円10銭で完成。「振勇義館」と名付けた。
44. 明治31年(1898年)に造った三隻の端艇(ボート)も古くなったので、6人漕ぎのレース兼用端艇を新造した。これを「伏虎」「明光」「臥龍」と名付けた。三年生から五年生までに一隻ずつ割り当てた。
45.2. 城内の寄宿舎も敷地が狭く、老朽化してきたため、市内豊原町に逐次寄宿舎を新築してきたが、この年計画の残部が竣工したので、城内の寄宿舎や、明治40年4月以来広瀬中ノ丁の民家を借りて設けていた幼年部の寄宿舎からも寄宿生が移ってきて、新寄宿舎に全員が移転を完了した。
この豊原町の寄宿舎への移転は、和中「吹上時代」への先駆けとなった。
大正2.2. 校長成富信敬群馬県立前橋中学校校長に転任する。
福島県立安積中学校校長野村浩一本校校長に任ぜられる。
砂の丸体操場(運動場)東端に土俵完成。
関東関西対抗相撲大会や、大浜の大会(大毎主催)等で大活躍し、好成績をおさめた。相撲部の強剛選手達の中ひときわ強かった西村米吉(4年生)は、大錦率いる大相撲から勧誘され、和歌浦というシコ名でプロになった。
3.4. 200年もの歴史をもつ藩学校(紀州学習館、漢学所、和歌山国学所)以来の流れを受け継いだ学校である徳義中学校は明治7年(1874年)3月開校。初め開知中学と名付けたが、後に徳義中学校となった。紀州徳川家から県立に移管され幾多の人材を輩出させた。ここに40年の歴史を閉じ和歌山中学校に吸収、合併された。旧校舎、敷地は旧県立工業学校に引き継がれた。
現在桐蔭高校南隣りの教育研修所内に石碑が建てられている。
4.3. 和中「城内時代」終る。
4.4. 和中の寄宿舎があった市内豊原町に教室三棟と大運動場が完成、城内西の丸跡校舎より移転。「吹上時代」始まる。
この経過を当時の野村浩一校長は次のように語っている。「運動場は、砂の丸でありましたけど、野球をやっていると球が木株にひっかかって狭苦しい。運動場としては、私の思う半分にも足らない。するとなんと恵まれたことでしょう。市役所が火事にあった。人の火事を喜ぶといってはすまぬが、焼けたものはしかたがない。それで校舎を塗り替えたならば市役所の間に合うから、学校はどこぞ広いところへ行きたい、とこう思ったのが豊原町であります」(開校五十周年記念祝賀式での講演速記録から)
6.3. 校長野村浩一岡山県立岡山第一中学校校長に転任する。
寺尾友鹿校長事務取扱を命ぜられ、次いで和歌山県立粉河中学校長吉村源之助(和中明治16年3月卒第二回卒業生)校長に補せられる。
講堂の落成と共に、新築校舎全部竣工する。
8.3. 校歌を撰定する。作詞多紀仁之助教諭、作曲は斉藤佳三。
9.3. 校長吉村源之助石川県立金沢第一中学校に転任する。
石川県立金沢第一中学校長戸村定楠(和中、明治23年6月卒、第9回卒業生)本校校長に補せられる。
9.4.10 「開校四十周年記念祝賀会ヲ挙行ス本校歴史上ニ一新紀元ヲ画シ、生徒訓育上ニ一大刺激ヲ与ヘタリ」
祝賀会は10日から三日間にわたり開催された時の校長は戸村定楠(和中、明治23年6月卒、第9回卒業生)、現、和中・桐蔭同窓会長戸村逹公の祖父にあたる。このとき、初めて「海南に幾春秋…」の校歌が歌われた。
10.8.14 大阪朝日新聞社主催第7回全国中等学校優勝野球大会開催。(鳴尾運動場)
本校野球部選手出場 第1回戦神戸一中に20対0、第2回戦釜山商業に2対1、準優勝戦に豊国中学を18対2で破り優勝戦に進み、京都一商に16対4で優勝する。
11.3.17 戸村校長和歌山県立粉河中学校長に転任のため告別式を行う。
11.3.18 長野県立飯田中学校校長奥源次本校校長に補せられ本日着任。
11.8.13 大阪朝日新聞社主催第8回全国中等学校野球大会に出場。2年連続優勝する。第1回戦早稲田実業に8対0、第2回戦立命館中学に4対1、第3回準優勝戦松本商業に2対1、第4回優勝戦神戸商業を8対4で破り優勝する。
11.11. 現存するコンクリートスタンドがこの年竣工。
中学校としては日本一の規模と偉容を誇った。費用は7,300円であった。
11.12.2 皇太子殿下(後の昭和天皇)行啓遊ばされ、校内及展示物を台覧、記念植樹につづき、完成したスタンドより、2年連続優勝の偉業をなしとげた野球部のOBと現役の試合を台覧になった。
12.7. 昨年12月2日皇太子殿下本校に行啓遊ばされ、学業並びに運動競技を御奨励遊ばされたのを永久に記念し且つ殿下の台旨に副い奉るために、皇太子殿下行啓記念学業運動競技奨励規定を設ける。
学業に於いては、毎学年度第2学期臨時試験の国語漢文英語数学の試験に優秀の成績を得た学級に対して、賞状及び優勝旗を授与し、個人に対しては、賞状及び賞牌を授与することとする。
運動競技に於ては、第2学期に、各競技種目に亘り、学級対抗にて競争させ、優秀の成績を得た学級に対して賞状及び優勝旗を授与し、個人に対しては、賞状及び賞牌を授与することとする。
夏期休暇を利用して、上級生の上級学校受験生に対して、必要科目の学力補充の講習を開始する。
昭和2.4.29 大阪毎日新聞社主催第4回全国選抜中等学校野球大会が甲子園球場で開催され、本校野球部選手出場。優勝校には渡米資格が与えられ、第1日から一般に大きな興味を呼び、広い甲子園の内外スタンドは立錐の余地もない程観衆で埋められた。第1回戦関西学院中学部に6対0、第2回戦松山商業に4対1、優勝戦に広陵を8対3で破り全国優勝の栄冠をかち得た。
4.11.1 開校50周年記念式を祝賀第1日の行事として行う。
4.11.2 祝賀第2日 旗行列 菊薫る晴天のもと、午前9時校旗、優勝旗を先頭に一千の健児日章の小旗を手に、校歌の声勇しく出発、小松原通、三年坂、広瀬通、田中町を経て日前宮に到り、校運の長久を祈る。帰途新通、裏橋、ブラクリ丁、京橋、十二番町、片原町、県庁前、真砂町を経て帰校、時は正に正午であった。
記念講演会 午後公会堂で、元校長野村浩一、京都帝大教授小川琢治、枢密顧問官鎌田栄吉三先生の講演を聞く。
4.11.3 祝賀第3日 陸上運動会、明治節拝賀式後9時頃より開催。
4.11.4 祝賀第4日 庭球大会 師範学校、海草中学校、海南中学校、高野山中学校、和歌山商業学校、和歌山工業学校、紀北農業学校の選手を招待。
蹴球大会 師範学校、粉河中学校、海草中学校、海南中学校、和歌山商業学校の選手を招待。
提灯行列 午後6時半出発、長町通、寄合橋、ト半町、駿河町、北グラクリ丁、住吉橋、二番町、県庁前、小松原通を経て帰校。街灯の光に紅灯映えうつり、歌声高く、熱狂して太鼓の音もとどろきわたる有様であった。
4.11.5 祝賀第5日 剣道大会 師範学校、粉河中学校、海草中学校、伊都中学校、耐久中学校、高野山中学校、海南中学校、和歌山商業学校の選手及市内外の官公署等より選手を招待して開催する。
柔道大会 師範学校、海草中学校、日高中学校、高野山中学校、和歌山商業学校選手及市内官公署道場より選手を招待して開催。
祝賀あいさつで奥校長は「三千四百余名の同窓先輩はあらゆる方面に盛んな活躍をされ、正に偉観であり…」と述べた。和中開設半世紀、華々しく、誇りに満ちた式典であった。正に和中の絶頂期の感があったという。
4.11.10 野球大会 市岡中学校、関西学院中学部、高松商業学校、和歌山商業学校選手を招待して開催 市岡対和商の試合3回に入り雨のため中止17日に延期、遠来の高松商業、関西学院中学部選手空しく帰らなければならなくなりお気の毒である。
5.2. 天皇即位大礼記念図書館(現同窓会館)完成。
6.1.10 文部省令第2号を以て中学校令施行規則が改正される。これは中学校教育の内容に関する重要な改正である。元来中学校の教育は中堅国民養成の高等普通教育であり完成教育であるべき所、実際には上級学校進学者が多いため自ら進学準備教育となる弊害が生じ、その上に学科目が画一的であるために生徒及地域の情況に適応しない点があったのを反省して、学科課程に大改正を加え、中学校教育の本旨を明にし、全生徒に課すべき基本科目を定め、第4学年以上においては、基本項目の外、生徒の性能、趣味、地域の情況等に留意して作成した増加課目から成り立つ第1種、第2種の課程を設けて、選修させることにしている。国体観念の養成精神教育の振興を高調し、勤労を尚ぶ気風を養う為に、新たに作業科を設けて基本科目中に置き、実業の科目を今回第1種課程に於ては必修とし、法制経済を改めて公民科とし、博物物理化学を総合して理科とし、外国語に新たに支那語を加え、剣道及柔道を体操中に於て必修としたことなどが本改正施行規則の重要点である。
8.9.2 「努力!天は自ら助くる者を助く」野村大将箴言碑除幕式挙行。
13.3. 学校長奥源次依頼退職し、廣瀬實造校長に任ぜられる。
13.4. 国家総動員法公布される。
本年度においては特に次の4項目の事業が行われた。

  1. 合同体操(全職員生徒)―毎週土曜日(自午後1時至午後2時)実施
    (イ)合同体操(第1、第2ラジオ体操、建国体操、県民体操等)
    (ロ)行進運動、行進歌合唱
  2. 全校一斉長距離駈歩(毎月1回実施)
    第1班(約10,000m)本校―兵営北側―水軒川堤―水軒口―車庫前―本校
    第2班(約9,000m)本校―兵営南側―水軒川堤―高松―本校
    第3班(約8,000m)本校―磯山町―堀止―今福―西浜―打越―本校
    第4班(約7,000m)本校―秋葉山―塩屋―打越―工業学校南側―本校
  3. 夜行軍(創立記念日行事)
    全校一体の美風を養い、困苦に耐える体力と、堅忍不抜の精神を錬磨する目的を以て第1回全校夜行軍を実施する。
    10月7日午後8時校庭に集合、中隊編成を以て同9時出発、地蔵ノ辻、六十谷橋、田井ノ瀬、井ノ口、矢田峠を経て、帰路竈山神社、日前宮に参拝行程約7里の夜路を踏破し、翌朝5時半、1名の落伍者もなく元気一ぱい無事帰校した。
  4. 体育週間
    (イ)行啓記念体育大会第1日(10月29日)第2日(11月2日)
    従来の秋季運動会を廃して、国策の線に沿い、国民の体位向上を目指して体育大会を2日間にわたり挙行する。
15.3.16 端艇部員春季練習のため、和歌浦湾内藻屑川河口艇庫から、端艇明光号を紀の川に回漕しようとして、部員8名午前8時半に艇庫に集合、午前9時出発約半時間(推定)の後河口を出た処、折柄西風強く、激浪に悩まされ、全員協力して戦ったが、不幸にも転覆遭難し、8名のクルー(4年生堀井幹夫、藤田敏朗、中野拾、3年生久保敏、岡道雄、中村一夫、富野郁、松井一三)全員が死亡するに至った。そしてその遺体は容易に発見できず、学校職員生徒は勿論和歌山警察署員、市内各警防団員、和歌浦、田野、雑賀崎其の他沿海漁業組合員等の連日にわたる協力応援によって約3週間の捜索により全員の遺体を収容することが出来た。
尚本事件に対して、各方面よりの同情集まり捜索費或は見舞金として寄附をよせられた金額金12,700円に上る。
16.2. 故堀井幹夫外7名の冥福を祈って、片男波に「八魂歌碑」が建立された。
16.12. 廣瀬實造校長退任。
阿部源三郎校長に任ぜられる。
16.12.8 対米英宣戦布告、太平洋戦争始まる。
この朝授業を休み、就任したばかりの阿部校長に率いられ、日前宮、竈山、伊太祈曽三社に「必勝祈願」をした。
17.4. 県立和歌山夜間中学校を県立和歌山中学校に併設する。
1941年アメリカ大統領やハル国務長官との粘り強い平和交渉も真珠湾攻撃により決裂。特命全権駐米大使(前外務大臣)野村吉三郎海軍大将は、大平洋戦争真っ只中、日米相互の外交官及同家族の交換船でニューヨークからケープタウン回りで、1942年帰国された。野村大将は帰国後、すぐに三度目の来校をされ全校生徒を集めて講演された。
戦時下、米英語(敵性語)排斥運動の高まる中英語学習の重要性を説き、視野を広くもつことの大切さを話され、後輩生徒に大きな感銘を与えた。
このとき、アメリカで購入され交換船で持ち帰ったウェヴスター英英大辞典最新版(1942年)2冊のうち1冊を母校和中に寄贈された。戦時下であり輸入も途だえて購入もできず貴重なものである。この年の版のウェヴスター大辞典は日本で只一冊現存するものと思われる。現在桐蔭図書館に保存されている。
18.1.21 戦時特別「中等学校令」公布。
昭和18年(1943)4月入学生から中学校の修業年限を4年に短縮することを決めた。
18.6. 学徒戦時動員体制確立要綱発表。
18.7. 学徒勤労動員が始まる。これまでも不定期に農家や軍施設等へ勤労動員されていた。
18.12. 兵員不足を補うため徴兵年齢1年引き下げ19歳とすることを決定。
19.6. 戦局の激化に伴い4、5年生は明石市の川崎航空機工場に、下級生は本州化学工場や山東鉄工所等へ動員され、校舎も1部兵舎に転用された。
19.10. 戦況増々悪化、戦死者の増加、戦線拡大による兵員不足のため満17歳以上を兵役に編入することを決定、このため4年生は修業年限を1年短縮、4年卒業とし、4、5年生を同時に卒業させることにした。
20.3. 5年生と繰上げ卒業の4年生は学徒動員先の明石の寮の近くの玉津小学校の校舎を借りて卒業式を挙行した。
戦時教育令公布され、学校授業1年間停止を決定。
20.7. 和歌山市が大空襲を受ける。
20.8.14 ポツダム宣言受諾決定。
20.8.15 天皇、戦争終結の詔書が放送され、太平洋戦争(第二次世界大戦)が終結した。
21.1. 阿部源三郎校長は辞任し、山田喜三郎校長に補せられる。
23.3. 学制改革により、旧制中学校制度が完全に廃止され、新制の教育制度が実施される。
最後の卒業生を送り出す。
23.4.27 新制高等学校G校として、和歌山市湊通り北1丁目、旧和歌山県立和歌山高等女学校校舎に設置、全日制(普通課程・商業課程)、定時制・通信教育部をおく。
23.5.10 開校式挙行。校名を桐蔭高等学校と定める。
初代校長 松野 三郎 就任
24.3.3 第1回卒業式(卒業生152名 男子133名・女子19名)
24.4.1 元県立和歌山中学校校舎の一部を東校舎として使用。
26.4.1 東校舎に移転。普通課程のみの単一制高等学校として発足。
29.4.1 定時制独立。和歌山県立青陵高等学校となる。
30.10.24 本館改築工事竣工。鉄筋コンクリート3階建(2,980.96平方m)
35.4.1 第2代校長 宮井 龍 就任
38.1.19 新校舎一部竣工。9教室・鉄筋コンクリート3階建(795平方m)
39.4.1 通信制独立。和歌山県立通信制高等学校となる。(現陵雲高等学校)
39.7.14 プール改造。更衣室・便所新設。
39.10.16 新校舎竣工。鉄筋コンクリート3階建・18教室(2,265平方m)廊下(80平方m)
43.2.10 講堂兼体育館竣工。鉄筋コンクリート2階建(一部3階・3,252平方m)
43.4.1 第3代校長 森 栄次郎 就任
47.4.1 第4代校長 志賀 義雄 就任
52.2.22 図書館及び生徒ホール竣工。鉄筋コンクリート2階建(881平方m)
53.5.3 和中創立100年・桐蔭30周年記念式典挙行。
校舎整備完工。
普通教室12・特別教室2(鉄筋コンクリート3階建 1,703平方m)
同窓会記念会館(鉄筋コンクリート2階建 375平方m)
54.3.1 部室(3棟・30室・339㎡)、倉庫(4棟・136平方m)完成。
54.4.1 南北学区制実施。
55.2.13 プール(25m・7コース)付属室(20室・423.192平方m)完成。
55.5.17 テニスコート(5面)完成。
55.5.31 野球バックネット(高さ14m×コンクリート柱)完成。
渡り廊下(3棟中央部廊下から体育館ロビーまで)完成(鉄骨)。
57.4.1 第5代校長 北内 齊 就任
57.9.25 スタンド全面補修完成。
58.8.1 住居表示変更。
新表示……和歌山市吹上5丁目6番18号
(旧表示……和歌山市豊原町1丁目1番地)
59.3.22 グラウンド整備完成。
61.8.8 硬式野球部第68回選手権大会(甲子園)出場。
61.11.1 トレーニングルーム(設備)完成。
62.4.1 第6代校長 丸山 昭治 就任
62.11.21 県立和歌山中学校・県立桐蔭高等学校同窓会合併。
63.3.31 本館(第1棟)改修工事完了。
63.10.29 和中創立110年・桐蔭40周年記念式典挙行。
平成元.4.1 第7代校長 園部 健 就任
3.4.1 第8代校長 赤阪 登 就任
数理科学科 併設。(定員80名、2学級)
4.11.30 普通教室棟(第2棟)改造工事完了。
5.4.1 第9代校長 永廣 禎夫 就任
8.3.29 グラウンド北側フェンス工事完了。(H14m L75m)
9.3.31 ブロック塀改修工事完了。(北側91m 西側86m)
10.4.1 第10代校長 北澤 誠士 就任
10.9.24 図書館内部改造工事完了。
普通教室棟(第2棟)耐震補強工事完了。
11.4.1 総合人文科 併設。(定員40名、1学級)
11.10.3 和中・桐蔭創立120周年記念式典挙行。
記念講演・竹中平蔵 慶應義塾大学教授。
和歌山中学校校歌・桐蔭高等学校校歌碑建立。
桐蔭高等学校レンガ塀修復工事完了。
12.3.31 モニュメント設置。
13.4.1 第11代校長 坂口 總之輔 就任
13.5.11 教育ネットワーク整備事業に伴う普通教室にコンピューター設置完了。
14.9.24 普通教室棟(第3棟)改造工事完了。
15.4.1 第12代校長 大江 嘉幸 就任
文部科学省「スーパーサイエンスハイスクール(SSH)」指定。
16.9.15 PC-LL教室完成。(第2棟)
17.3.23 普通教室空調設備建築工事完了。
18.4.1 第13代校長 小川 敬文 就任
19.3.12 桐蔭中学校校舎整備工事完了。
19.4.6 桐蔭中学校開校。
19.9.28 桐蔭高校給品棟耐震改修他工事完了。
20.3.25 桐蔭中学校校舎整備工事完了。
20.3.31 桐蔭高校ボート倉庫解体撤去工事完了。
20.12.18 桐蔭中学校手洗場設置工事完了。
21.7.21 総合人文科 平成22年度より募集停止決定。
21.10.10 和中・桐蔭創立130周年記念式典挙行。
22.3.17 桐蔭中学校第1回卒業証書授与式(卒業生79名 男子39名 女子40名)
22.4.1 第14代校長 勝丸 健司 就任
23.3.23 桐蔭体育館大規模改造工事完了。
24.4.1 第15代校長 宮下 和己 就任
25.4.1 文部科学省「研究開発学校」指定。
26.4.1 第16代校長 岸田 正幸 就任
27.3.22 硬式野球部第87回選抜高等学校野球大会21世紀枠出場。
29.3.4 桐蔭中学校創立10周年記念式典挙行。
29.3.16 グラウンド改修工事完了。
29.4.1 第17代校長 清水 博行 就任
30.4.1 三学期制実施
30.6.5 数理科学科平成31年度からより募集停止決定
31.4.1 18代校長 木皮 享 就任
令和元10.13 和中・桐蔭創立140周年記念式典挙行
3.2.4 同窓会館(旧図書館)並びに運動場スタンド 国有形文化財登録