高校人国記

【高校人国記】5 あふれる個性 落語や音楽も

恒例となっている、学園祭でのグリークラブ公演。全国大会に21回出場し、金賞を10回、銀賞を8回獲得している(昨年11月)
教師の広島弁や歩き方 細かく観察

 落語家の古今亭菊丸(68)は高校時代、「小さい頃から好きだった」という物まねを休憩時間に披露し、教室を沸かせた。まねたのは個性的と感じた教師たちの所作。「アズ・スーン・アズ、答えにゃあ、だめで」。教師たちの使う独特の広島弁や歩き方まで細かく観察した。「すぐにクラスの人気者になった」

広島商科大(現広島修道大)に進学。落語研究会に入り、本格的に落語に取り組んだ。地元のラジオ番組にもレギュラー出演し、話芸を磨いた。1975年、古今亭円菊一門に入った。あの物まねに使った広島弁は直し、江戸言葉を覚えた。90年に真打ち昇進。古典落語を専門とし2011年、文化庁芸術祭大衆芸能部門で優秀賞に選ばれた。

 菊丸が「身元引受人」となり、落語界入りを実現させたのが柳家福治(62)。福治も高校卒業後、広島修道大で落語研究会に入った。民間企業に勤めたが、「プロのはなし家になりたい」との思いが募った。1981年に上京し、憧れの師匠である柳家小三治を楽屋に訪ねた。ところが、「会わない」などと師匠は難色。付き添った菊丸が「私が面倒を見ます」と約束し、入門を果たす。なまりを克服し96年、真打ちに昇進した。

菊丸の真打ち昇進をきっかけに広島での定期的な寄席が活発化した。菊丸、福治の古典落語二人寄席も実現した。

グリークラブで声の基礎つくる

 広島を拠点に活動する歌手、南一誠(67)は、後に全国制覇も果たすグリークラブ創設時(68年)のメンバーだ。「声の基礎がつくれた」と、音楽への道を歩むきっかけとなった。

昼休み、放課後、さらに大会前には朝練習も加わり発声練習を繰り返した。3年の時、全日本合唱コンクール県大会で2位に。初代ソリスト(独唱者)にもなった。80年にレコードデビューし、「広島天国」「それ行けカープ」などのロングランを持つ。

2011年から東日本大震災の被災地支援に取り組むほか、最近では出身地の東広島市安芸津町での復興コンサートも実施。「音楽を通じ復興を支援する」とツアーを重ねる。1991年にデビューしたマジシャンのRYOもグリークラブ出身。「高校時代に全国大会を経験し、お客を楽しませる力を培った」

 ロックバンド「柳ジョージ&レイニーウッド」の元リーダーでキーボード奏者の上綱克彦(66)はバンド活動最優先の高校時代を過ごした。放課後は同級生を含む音楽仲間と広島市内の友人宅で練習を重ねた。高校2年で地区予選を勝ち抜き、アマバンドの全国大会に出場した。「コンテストは学校には内緒。偽名を使ったこともある」という。

母校には70年代後半に軽音楽部が生まれたが「(在学中の60年代後半は)エレキバンド=不良の時代。音楽関係の教師からは目の敵にされた」と当時を振り返った。

 大本和則(69)は「高校時代、正義の味方として漠然と憧れた」弁護士として活躍。2006年には広島弁護士会会長として日本司法支援センター(法テラス)広島地方事務所開設に尽力。現在は、家庭裁判所の元調査官などでつくる「FPIC(エフピック)広島ファミリー相談室」代表として離婚後の面会交流支援に力を注ぐ。

地元業界団体でリーダーとして活躍する経済人は多い。昨年11月まで13年間、西条酒造協会理事長を務めた賀茂泉酒造会長の前垣寿男(73)をはじめ、広島県菓子工業組合理事長を務める、にしき堂社長の大谷博国(66)、広島県漬物製造業協同組合理事長で山豊社長の山本千曲(62)がいる。

このほか、経済界ではエディオン社長の久保允誉(69)、東亜地所社長の西本義弘(61)、速太郎本部社長の高木芳郎(59)、良和ハウス社長の和田伸幸(49)、砂原組社長の砂原傑(34)。政界では内閣府政務官で自民党衆院議員の神田憲次(56)=比例東海、庄原市長の木山耕三(66)がいる。

また、「ラグビーがしたい」と崇徳に進学した野坂元明(48)は現在、世界遺産・厳島神社の73代目宮司。高校球児だった森本正治(64)は「料理の鉄人」で知られる。半世紀余り前、日大全共闘議長として学生運動を指揮した秋田明大(73)は現在、呉市に帰郷し、自動車整備工場を経営している。=敬称略
(編集委員・杉本貢)

メモ

<男女共学化>男子校だった崇徳高校は今春、難関大を目指す生徒でつくる普通科特別進学コースで女子生徒の受け入れを始める。2021年4月には併設の中学校も含め、全面的に男女共学にする。男女がともに学ぶことでより視野を広げてもらう狙い。崇徳高校を運営する崇徳学園は16年ごろから、校舎建て替えや男女共学化、学校規模の三つをテーマに、理事会や校内で議論を重ねてきたという。共学化を踏まえた校舎建て替えなど教育施設の整備は19年春に終えた。

【高校人国記】4 選抜初出場でV 個人種目も活躍

練習に励む崇徳高校野球部員。卒業生の応武が監督として指揮を執る
甲子園にもう一度 監督就任で恩返し

 硬式野球部は1976年、選抜で初出場初優勝を果たした。優勝旗を持ち帰った球児たちは連日、母校に押しかけるファンに驚いた。

元広島東洋カープ選手で野球解説者の山崎隆造(61)もその一人。「男子校に女子高生が何百人も。世界が変わった」と振り返る。3年生は14人。カープに入団したのが主将だった山崎と、小川達明(61)。元ヤクルト投手の黒田真二(61)をはじめ、大学や社会人などで野球を続けた。

山崎はカープの主力として活躍した後、コーチや2軍監督を務めた。高校時代、監督だった教師が「おれは強運。だから(甲子園で)優勝する」といった言葉が忘れられない。「その後の野球人生につながった」

卒業から30年余。「個性が強く、まとまりがなかった」というメンバーは還暦が近づくと、集まるようになった。きっかけは山崎が2軍監督を退いた2011年、慰労会でかつての球児たちが再会した。

 集まるたび、遠のいていた甲子園出場への思いが皆に募った。春は1993年、夏は76年が最後。「もう一度、甲子園で校歌を歌おう」。あの日のメンバーで元早稲田大野球部監督の応武篤良(61)が2014年、野球部OB会長に就任、山崎が副会長となり、支える態勢が整った。

甲子園で捕手だった応武は早大に進学し社会人でもプレー、10年まで6年間、早大野球部を監督として率い、6回の東京六大学リーグ制覇などを果たした。その実績を買った母校から要請を受け18年夏、東京から広島に拠点を移し監督に就任した。

監督就任を「恩返し」という。父の勧めで大学進学を希望したが、口にした進学先が早大。マスコミに報道され、「(学力的に)無理」と言っていた担任を含め複数の教師が一転し、受験までの半年、夜10時ごろまでマンツーマンで指導を続けてくれた。「崇徳に来て良かったと、生徒に思ってもらえる指導をしたい」

野球などの団体競技のほか、個人種目での活躍も目立つ。

柔道で初の団体優勝 目頭熱くなった

 ミュンヘン五輪柔道男子軽量級の金メダリスト、川口孝夫(69)は3年だった1968年、福山市であったインターハイで軽量級に出場し、優勝した。これを弾みに、柔道の強豪である明治大に進み、五輪のほか、世界柔道選手権での優勝など戦績を重ねた。

広島市の自宅隣で道場を運営していた父の影響で5歳から柔道を始めたが、実は小学生からチームに入った「バレーボールが楽しかった」という。本格的に柔道に取り組んだのは高校から。放課後は母校、帰宅してから道場でと、夜中まで稽古を続けた。

広島矯正管区で武道教官をしながら2001年まで母校柔道部の監督も務めた。現在は道場を引き継ぎ、アジア柔道連盟審判理事としてアジア各地を飛び回り、審判員を指導する日々を送る。

母校柔道部は13年、インターハイで初めて団体優勝を果たす。「その時、大会役員として福岡市の会場でひな壇にいた。作陽(岡山)を破り、優勝を決めた瞬間、目頭が熱くなった」。柔道では10年の世界選手権男子無差別級で優勝した上川大樹(30)=広島刑務所刑務官=もいる。

 プロゴルファー、倉本昌弘(64)は「バレーボール部に入りたい」と崇徳に進学を決めたが、小柄な体格もあり入学前に学校関係者から陸上部を勧められたという。陸上部には1年間、籍こそ置いたが、放課後は主にゴルフ練習場とトレーニングジムに通った。

高校3年の時、日本ジュニアゴルフ選手権で優勝、日本大に進み、日本学生選手権4連覇し1981年にプロデビュー、82年には全英オープン選手権で4位に食い込むなど活躍。2014年から日本プロゴルフ協会会長を務め、約5600人の会員を束ねる。

母校には1992年、ゴルフ部(当時はゴルフ同好会)が発足。「ゴルフはコースを見て戦術戦略を考える。自分を成長させ、ビジネスにもつながる生涯スポーツ。ゴルフを通じ、いろいろ学んでほしい」。後輩たちにエールを送った。

このほか、スポーツ関係では、2018年夏まで日本ボクシング連盟会長代行などを務め、トップの不祥事に伴う騒動の収拾に当たった森正耕太郎(81)がいる。=敬称略(編集委員・杉本貢)

メモ

<かつての卒業生(一時在籍者を含む)>能海寛(1868~1901年?)チベット巡礼探検家・仏教哲学者。仏典を探すためチベットに向かった01年、消息を絶った=進徳教校

▽栗田淳一(1888~1965年)日本石油(現JXTGエネルギー)社長▽三枝博音(1892~1963年)哲学者、横浜市立大学長、日本科学史学会長▽武田孟(1896~1990年)日本学生野球協会名誉会長、明治大総長、札幌大学長▽沼田恵範(1897~1994年)仏教伝道協会発願者、精密測定機器メーカー・ミツトヨ創業者=以上、第四仏教中学

【高校人国記】3 名選手や指導者、バレー界けん引

練習に励むバレーボール部員。戦後、五輪選手や指導者を輩出し、バレー界に崇徳人脈を築いた
高校の繰り返し練習 今になれば力になった

 「東京五輪へ向け、ジュニア女子の活躍にも注目してほしい」。東京都渋谷区の日本バレーボール協会で寺廻太(62)はこう、切り出した。1975年、高校男子バレーで春夏秋の全国大会3冠を達成したメンバーの一人。2018年春からバレーボール女子日本代表の強化委員長を務める。

ジュニアの活躍とは、昨年7月のU20(20歳以下)世界選手権での初優勝を指す。Vリーグや全日本大学選手権などの視察はもちろん、ジュニアの合宿などにも出向き、選手の状態もチェックする。「底上げし、未来をつくる」と若手への視線は熱い。

明治大や社会人リーグで活躍。男子日本代表監督を務めた後、VリーグのJT女子チームの監督も経験した。「高校時代は練習がきつく、いつもやめようと思っていた。だが、あの繰り返し練習が今になってみれば力になった」。今は選手の所属団体との交渉や予算など裏方を担う。「絶好のコンディションで五輪を迎えられるよう努める」

 その3冠時代にセッターだった大地(おおち)克史(62)は現在、食酢メーカー・センナリ(広島市安佐北区)の社長。中央大に進学し、全日本選抜メンバーにも選ばれたが、卒業後はブルドックソース(東京)で働いた後、家業を継いだ。

売りは、有機栽培の国産米と天然水を使った米酢。首都圏で飛び込み営業を重ね、海外38カ国に販路を広げた。名刺の裏に「崇徳で3冠」など戦績を記す。「バレーの話で個人的な信用を得られた」。主将として全国制覇を果たした大学時代の写真を社長室に飾り、忍耐力やチームをまとめた経験を心に刻む。

監督の言葉。企業人としての指針に

 寺廻や大地と同級で現在、大和ハウスグループの大和リースで理事を務める藤井康司(61)は「(ミュンヘン五輪金メダリストの)猫田勝敏さん(故人)に憧れ」、福山市から崇徳へ。法政大に進み、4年の時、副主将として全日本大学選手権に臨んだ。決勝で大地が主将を務める中央大と対戦し敗れた。「おめでとう」「やす(康)、悪いのう」。大地と、こんなやりとりをしたという。

三井生命保険(現大樹生命保険)に入り、法人営業本部長を務めた後、自走式立体駐車場メーカーに転職、さらに大和リースに移った。「アタッカーが活躍できるのは球拾いがいてこそ」。高校時代の監督の言葉が企業人としての指針。「感謝の気持ちを常に持つ」を肝に銘じてきた。

終戦翌年の1946年に発足したバレー部は57年に全国優勝を果たす。これまでに計17回の全国優勝を誇り、「世界の名セッター」と呼ばれた猫田をはじめ、東京五輪で銅メダルを獲得した森山輝久(77)、ミュンヘン五輪金メダルの西本哲雄(69)たちの選手を輩出した。

 指導者も多い。東海大体育学部長の積山和明(まさあき)(64)は学部長に就任した2017年までの30年余り、男子バレーボール部監督を務め、この間にチームを全日本大学選手権で7回の優勝に導いた。母校から東海大に進学した本多洋(48)が主将だった1993年には初の大学4冠を達成した。

 

 青山学院大男子バレーボール部監督の小早川啓(68)は就任から13年目の2019年、関東リーグ4部だったチームを初めて1部に昇格させた。試合会場には必ず「志は高かるべし」と書いた垂れ幕を掲げる。高校2年の時、インターハイ優勝で覚えた、「勝つ喜び」を選手に伝えたいとの思いからだという。

このほか、元富士フイルム監督の井原文之(79)、元Vリーグ男子JT監督で現在は進徳女子高バレーボール部監督の小田雅志(64)。競技関係団体では広島のプロや実業団でつくるトップス広島の前理事長の山下仁(73)、広島県高体連バレーボール専門部長で高陽東高校長の金沢宏(58)たちがいる。

高校バレー界はかつての強豪校が影を潜め、群雄割拠の状態になった。崇徳の全国制覇は1988年が最後。当時、2年だった本多はJTで選手として活躍し現在は母校の監督を務める。「私が高校生だった頃から全国出場を続けているのは崇徳くらい」と振り返り、「人間性豊かな、いいチームで日本一になる」と決意を込めた。=敬称略(編集委員・杉本貢)

メモ

<かつての卒業生>谷口孟(1904~69年)日本銀行副総裁▽高橋敏雄(1908~98年)萬国製針会長▽湧永満之(1910~92年)湧永製薬創業者▽白井修一郎(1917~87年)中国醸造社長、広島県ラグビーフットボール協会会長▽小倉馨(1920~79年)原爆資料館長▽大歳克衛(1929~2014年)洋画家=以上、旧制崇徳中学

前弘登(1935~2006年)広交本社会長▽猫田勝敏(1944~83年)選手として東京五輪バレーボール男子で銅、メキシコ五輪で銀、ミュンヘン五輪で金メダルを獲得。「世界の名セッター」といわれる▽米田一典(1950~2012年)バレーボール女子日本代表でコーチを務めてモントリオール五輪で金、ロサンゼルス五輪では女子監督として銅メダル▽渡辺和博(1950~2007年)「金魂巻」著者=以上、崇徳高校

【高校人国記】2 学友たちの死、被爆体験語る

被爆後の旧制崇徳中一帯。講堂の外郭を残し、焼失した(1945年秋の撮影、崇徳高校を運営する崇徳学園提供)

 被爆体験を初めて語ったのは1994年、タイ・バンコクだった。

安楽寺(広島市東区)前住職の登世岡(とよおか)浩治(89)。あの日、旧制崇徳中4年だった。学徒動員先の西区の工場で自身も被爆し、多くの学友を失った。

会場には現地の大学教授や公務員など約200人が集まった。12歳だった弟や学友の死、広島市内の惨状や黒い雨に打たれた体験などを語った。スピーチが終わると、聴衆が登世岡を取り囲んだ。質問は途切れず「広島に戻って、みんなに話をしてほしい」と背中を押された。

寺を継いで宗教者の平和運動にも関わったが「悲惨で話せない」と自身の体験は封印してきた。転機は「あの年が弟の五十回忌で、所属する広島日タイ友好協会から強く頼まれ、断り切れなかったから」という。

それから四半世紀。毎夏、地元小学生たちを寺に招いて被爆体験を話す。母校を含め市内の高校でも講演するなど活動を続ける。

生き残った申し訳なさ。長年、証言せず

 元広島市立祇園東中校長で当時、旧制崇徳中3年だった杉山武郎(88)は、退職後の98年から証言活動を始めた。地元の幼稚園から始め、市内の小学校にも出向くように。2001年、退職校長たちでつくる「ヒロシマを語り継ぐ教師の会」発足に加わり、15年から会長を務める。

あの日、爆心地近くでの建物疎開作業に加わる予定だったが、体調を崩して欠席。安佐南区の自宅にいたが、12歳の妹を捜しに入市被爆した。妹の遺骨は見つからず、学友たちの死も戦後、知った。「自分だけ生き残った申し訳なさ」から長年、教え子にも家族にも被爆体験を話さなかった。

被爆後、仮校舎は窓の吹き飛んだ近くの小学校。教師と生徒は拾った板切れに石でくぎを打ち、窓をふさいだ。トタン板が黒板代わり。それでも「先生の解き方が面白かった」と数学により興味を持ち、教師を志す。「多くの犠牲の上に今の平和がある」。今後も証言活動に力を入れる。

 06年まで9年間、原爆資料館長を務めた畑口実(73)が、被爆死した父や入市被爆した母について初めて詳しく語ったのは、インド・ムンバイだった。

胎内被爆者。「なぜ生まれながらに父がいないのか」。生物部で植物採集に明け暮れた高校時代を含めて、原爆を投下した米国への憎しみが強かった。市役所入りし、館長となった1997年、「生い立ちを話すのが嫌で就任から1、2カ月は辞めることばかり考えていた」という。

転機は翌年、広島、長崎両市がムンバイで開いた原爆展だった。資料館関係者から強く要請され、父の遺品である懐中時計を手に3千人を前に証言した。終わった後、100人を超す聴衆にサインを求められ「吹っ切れた」。その後、「父を失った怒りも込めて話し続けた」という。

生で聴ける最後の世代。継承に使命感

広島市中区の歓楽街にあるバーで毎月開かれていた被爆証言の会を、亡くなった主催者から2年半前に引き継いだのが、シンガー・ソングライターのHIPPY(ヒッピー)(39)。「高校時代、原爆はひとごとだった。(正面玄関そばにある)母校の慰霊碑すら記憶が薄かった」というが、証言の会参加者と、安楽寺に登世岡を訪ねるなど継承に力を入れる。

 高校時代はライブハウスに通ったり自宅でパンクロックを聴いたり。学生時代に歌手デビューを果たすが、10年ほど前の証言の会主催者との出会いで「被爆体験に衝撃を受けた」。数年前、祖父が入市被爆していたことを初めて知った。「被爆者は本当は体験を言いたくないんだと分かった。でも生で聴ける最後の世代」と使命感を燃やす。

 

 登世岡と同級生で西区の工場で被爆した、沼田自動車学校創立者の新原清人(90)は終戦直後、焼け跡でがれきの整理をしていた仲間たちとバレーボールを始めた。漁網をネットに、支柱は焼け残った廃材を使った。「これが崇徳バレーの始まり」という。生命保険会社に入り、東京勤務だった61年、母校の硬式野球部が初の甲子園出場を果たす。「日銀や石油元売り企業の幹部だった同窓生を訪ね、寄付金を集めた」。母校は戦後、着実に復興へと歩みを始める。=敬称略(編集委員・杉本貢)

メモ

<被爆状況>旧制崇徳中学の生徒512人、教職員10人が犠牲となった。生徒たちは当時、学徒動員され、中区の八丁堀付近での建物疎開や西区観音地区の機械工場でのタービン組み立て作業に従事するなどしていた。校舎は講堂の外壁以外は全て焼け落ちた。このため中区にあった小学校の校舎を借りて授業を再開、原爆投下の翌年の1946年11月末から一部復興した校舎に戻った。51年、教師の呼び掛けに保護者も協力し、敷地内に原爆供養塔を建立した。崇徳高校は74年から8月6日を生徒登校日とし、生徒全員参加の法要をしている。

【高校人国記】1 仏教の教えが活動の指針

140年を超す歴史を持つ崇徳高校。旧制中学時代から、これまでに約3万8千人の卒業生を送り出した
人を思いやる心学び建設行政で活躍

 仏教精神に基づく若者育成を目的に創設され、140年を超す歴史を持つ。このため中国地方各地から多くの僧侶の子弟が通った。

元建設官僚の黒川弘(79)は65年前の入学式でもらったという小冊子を取り出した。親鸞の教えや仏教歌などを記した「聖典」。鎌倉仏教に関心を持ち、今も月1回は鎌倉市の寺に通い、お経を読む。

安芸高田市の寺で育った。住職だった祖父の傍らに座り、お経を覚えた。小学校からの帰路、檀家(だんか)を回ってお経を読むほどに。祖父が崇徳の前身である第四仏教中学の卒業生だったこともあり、崇徳へ。「教わったことだけを勉強しても駄目だ」という教師の言葉で幅広く勉学に励んだ。

京都大法学部を卒業後、「国づくりに携わりたい」と建設省(現国土交通省)入り。河川、道路畑などを歩み、広島市の太田川放水路造りにも関わった。その後、都市局長などを歴任。2004年に研究者たちと地域マネジメント学会の立ち上げに関わり、18年春まで4年間、会長を務めた。原点は、寺での暮らしと高校時代。「人を思いやるという心など精神的な面で仏教思想の影響を受けた」

 エコノミストとして知られる高橋乗宣(79)も安芸高田市の寺の長男だった。旧制崇徳中出身の父の影響で崇徳に進んだ。新聞部に所属し「学校のことをみんなで考えよう」と健筆を振るった。教育分野の研究者を目指し、東京教育大文学部に進んだが、キャンパスは60年安保闘争のさなか。学生運動に加わり、国際経済に関心を持った。

哲学科から経済学科に移り、大学院博士課程を修了した後、設立から間もない三菱総合研究所に。1980年代後半にはバブル経済の崩壊を予測し、注目を集めた。「みんなが気がついていないことを指摘するのは非常に重要」とし「自分で判断し行動する姿勢は、好き勝手にさせてもらった高校時代に原点があるかもしれない」と振り返った。

本質を追究する姿勢 担任の先生あってこそ

龍谷大学長の入沢崇(64)は「学びの原点は高校時代」と言い切る。尾道市の寺の次男に生まれ、「家から出たい」と崇徳に進んだ。しかし、2年生の時、受験を目的とする勉強が嫌になり不登校になった。

下宿先を訪ねてきた担任教師から「好きにしたらいい」と見守ってもらった。太田川河畔で西田幾多郎の「善の研究」などを読みあさった。その感想文を担任教師に届け、やりとりをするうち、学校に復帰した。

龍谷大で仏教文化の研究に専念し、08年までの5年間はアフガニスタン仏教遺跡調査隊の隊長を務めた。父が03年に亡くなり寺を継いだ。17年に学長になったが、週末は可能な限り帰郷する。「本質的なことを学ぶ姿勢は担任の先生あってこそ」と高校時代を懐かしんだ。

関西地区の僧侶などでつくる新電力会社テラエナジー(京都市)社長の竹本了悟(42)も江田島市の寺の次男だった。防衛大から海上自衛隊に入ったが、米兵からベトナム戦争の実態を聞き「人を殺せるだろうか」と自問自答するなどし退官。龍谷大大学院へ進み、本願寺派総合研究所研究員になった。

 研究員時代の10年、仲間とNPO法人「京都自死・自殺相談センター」を設立し代表に。さらに18年、テラエナジーを設立した。19年春から中国地方で電力販売を始め、今後、近畿や九州、関東に進出する。「収益の一部を過疎地のお寺の維持費などに活用したい」。知人から引き継いだ奈良県の寺の住職を務めながら、中国地方を中心に営業活動を続ける。

 

 広島市の寺の次男だった泉原秀(52)は南米に渡り開教使として活躍する。北陸などの寺で僧侶をした後、07年、真宗大谷派(東本願寺)の公募に応じ、ブラジルへ。サンパウロでの勤務後、現在はマリリア真宗本願寺を拠点に南米各地の門徒を訪ね歩く。

移民の際に日本から持ってきた仏壇を大切に使う門徒もいる。「先祖を大切にする気持ちが伝わり、感動する」という日々に高校時代を思い出す。「学園祭などで『一生懸命になれ』と怒ってくれた先生たちが懐かしい」=敬称略(編集委員・杉本貢)

メモ

<校名>崇徳高等学校
<所在地>広島市西区楠木町4の15の13
<校長>高木哲典(12代目)
<クラス数>1、2年が11、3年は12(いずれも普通科)
<生徒数>1098人(2019年度)
<校名の変遷>1875(明治8)年、浄土真宗篤信者により広島市中区胡町に専門道場「学仏場」設立▽77(同10)年、同区寺町に移転し、進徳教校と改称、5年後に現在地に移転▽1900(同33)年、仏教中学▽01(同34)年、広島仏教中学▽02(同35)年、第四仏教中学▽13(大正2)年、旧制崇徳中学▽48(昭和23)年、学制改革で現校名に
<校章>地紋の3枚のササの葉は、所在地の三篠地区と、仏教の伝統を象徴する三宝(仏宝・法宝・僧宝)を図案化した