【高校人国記】4 選抜初出場でV 個人種目も活躍
甲子園にもう一度 監督就任で恩返し
硬式野球部は1976年、選抜で初出場初優勝を果たした。優勝旗を持ち帰った球児たちは連日、母校に押しかけるファンに驚いた。
元広島東洋カープ選手で野球解説者の山崎隆造(61)もその一人。「男子校に女子高生が何百人も。世界が変わった」と振り返る。3年生は14人。カープに入団したのが主将だった山崎と、小川達明(61)。元ヤクルト投手の黒田真二(61)をはじめ、大学や社会人などで野球を続けた。
山崎はカープの主力として活躍した後、コーチや2軍監督を務めた。高校時代、監督だった教師が「おれは強運。だから(甲子園で)優勝する」といった言葉が忘れられない。「その後の野球人生につながった」
卒業から30年余。「個性が強く、まとまりがなかった」というメンバーは還暦が近づくと、集まるようになった。きっかけは山崎が2軍監督を退いた2011年、慰労会でかつての球児たちが再会した。
集まるたび、遠のいていた甲子園出場への思いが皆に募った。春は1993年、夏は76年が最後。「もう一度、甲子園で校歌を歌おう」。あの日のメンバーで元早稲田大野球部監督の応武篤良(61)が2014年、野球部OB会長に就任、山崎が副会長となり、支える態勢が整った。
甲子園で捕手だった応武は早大に進学し社会人でもプレー、10年まで6年間、早大野球部を監督として率い、6回の東京六大学リーグ制覇などを果たした。その実績を買った母校から要請を受け18年夏、東京から広島に拠点を移し監督に就任した。
監督就任を「恩返し」という。父の勧めで大学進学を希望したが、口にした進学先が早大。マスコミに報道され、「(学力的に)無理」と言っていた担任を含め複数の教師が一転し、受験までの半年、夜10時ごろまでマンツーマンで指導を続けてくれた。「崇徳に来て良かったと、生徒に思ってもらえる指導をしたい」
野球などの団体競技のほか、個人種目での活躍も目立つ。
柔道で初の団体優勝 目頭熱くなった
ミュンヘン五輪柔道男子軽量級の金メダリスト、川口孝夫(69)は3年だった1968年、福山市であったインターハイで軽量級に出場し、優勝した。これを弾みに、柔道の強豪である明治大に進み、五輪のほか、世界柔道選手権での優勝など戦績を重ねた。
広島市の自宅隣で道場を運営していた父の影響で5歳から柔道を始めたが、実は小学生からチームに入った「バレーボールが楽しかった」という。本格的に柔道に取り組んだのは高校から。放課後は母校、帰宅してから道場でと、夜中まで稽古を続けた。
広島矯正管区で武道教官をしながら2001年まで母校柔道部の監督も務めた。現在は道場を引き継ぎ、アジア柔道連盟審判理事としてアジア各地を飛び回り、審判員を指導する日々を送る。
母校柔道部は13年、インターハイで初めて団体優勝を果たす。「その時、大会役員として福岡市の会場でひな壇にいた。作陽(岡山)を破り、優勝を決めた瞬間、目頭が熱くなった」。柔道では10年の世界選手権男子無差別級で優勝した上川大樹(30)=広島刑務所刑務官=もいる。
プロゴルファー、倉本昌弘(64)は「バレーボール部に入りたい」と崇徳に進学を決めたが、小柄な体格もあり入学前に学校関係者から陸上部を勧められたという。陸上部には1年間、籍こそ置いたが、放課後は主にゴルフ練習場とトレーニングジムに通った。
高校3年の時、日本ジュニアゴルフ選手権で優勝、日本大に進み、日本学生選手権4連覇し1981年にプロデビュー、82年には全英オープン選手権で4位に食い込むなど活躍。2014年から日本プロゴルフ協会会長を務め、約5600人の会員を束ねる。
母校には1992年、ゴルフ部(当時はゴルフ同好会)が発足。「ゴルフはコースを見て戦術戦略を考える。自分を成長させ、ビジネスにもつながる生涯スポーツ。ゴルフを通じ、いろいろ学んでほしい」。後輩たちにエールを送った。
このほか、スポーツ関係では、2018年夏まで日本ボクシング連盟会長代行などを務め、トップの不祥事に伴う騒動の収拾に当たった森正耕太郎(81)がいる。=敬称略(編集委員・杉本貢)
メモ
<かつての卒業生(一時在籍者を含む)>能海寛(1868~1901年?)チベット巡礼探検家・仏教哲学者。仏典を探すためチベットに向かった01年、消息を絶った=進徳教校
▽栗田淳一(1888~1965年)日本石油(現JXTGエネルギー)社長▽三枝博音(1892~1963年)哲学者、横浜市立大学長、日本科学史学会長▽武田孟(1896~1990年)日本学生野球協会名誉会長、明治大総長、札幌大学長▽沼田恵範(1897~1994年)仏教伝道協会発願者、精密測定機器メーカー・ミツトヨ創業者=以上、第四仏教中学
投稿日: 2020年1月31日