【高校人国記】2 学友たちの死、被爆体験語る

【高校人国記】2 学友たちの死、被爆体験語る

被爆後の旧制崇徳中一帯。講堂の外郭を残し、焼失した(1945年秋の撮影、崇徳高校を運営する崇徳学園提供)

 被爆体験を初めて語ったのは1994年、タイ・バンコクだった。

安楽寺(広島市東区)前住職の登世岡(とよおか)浩治(89)。あの日、旧制崇徳中4年だった。学徒動員先の西区の工場で自身も被爆し、多くの学友を失った。

会場には現地の大学教授や公務員など約200人が集まった。12歳だった弟や学友の死、広島市内の惨状や黒い雨に打たれた体験などを語った。スピーチが終わると、聴衆が登世岡を取り囲んだ。質問は途切れず「広島に戻って、みんなに話をしてほしい」と背中を押された。

寺を継いで宗教者の平和運動にも関わったが「悲惨で話せない」と自身の体験は封印してきた。転機は「あの年が弟の五十回忌で、所属する広島日タイ友好協会から強く頼まれ、断り切れなかったから」という。

それから四半世紀。毎夏、地元小学生たちを寺に招いて被爆体験を話す。母校を含め市内の高校でも講演するなど活動を続ける。

生き残った申し訳なさ。長年、証言せず

 元広島市立祇園東中校長で当時、旧制崇徳中3年だった杉山武郎(88)は、退職後の98年から証言活動を始めた。地元の幼稚園から始め、市内の小学校にも出向くように。2001年、退職校長たちでつくる「ヒロシマを語り継ぐ教師の会」発足に加わり、15年から会長を務める。

あの日、爆心地近くでの建物疎開作業に加わる予定だったが、体調を崩して欠席。安佐南区の自宅にいたが、12歳の妹を捜しに入市被爆した。妹の遺骨は見つからず、学友たちの死も戦後、知った。「自分だけ生き残った申し訳なさ」から長年、教え子にも家族にも被爆体験を話さなかった。

被爆後、仮校舎は窓の吹き飛んだ近くの小学校。教師と生徒は拾った板切れに石でくぎを打ち、窓をふさいだ。トタン板が黒板代わり。それでも「先生の解き方が面白かった」と数学により興味を持ち、教師を志す。「多くの犠牲の上に今の平和がある」。今後も証言活動に力を入れる。

 06年まで9年間、原爆資料館長を務めた畑口実(73)が、被爆死した父や入市被爆した母について初めて詳しく語ったのは、インド・ムンバイだった。

胎内被爆者。「なぜ生まれながらに父がいないのか」。生物部で植物採集に明け暮れた高校時代を含めて、原爆を投下した米国への憎しみが強かった。市役所入りし、館長となった1997年、「生い立ちを話すのが嫌で就任から1、2カ月は辞めることばかり考えていた」という。

転機は翌年、広島、長崎両市がムンバイで開いた原爆展だった。資料館関係者から強く要請され、父の遺品である懐中時計を手に3千人を前に証言した。終わった後、100人を超す聴衆にサインを求められ「吹っ切れた」。その後、「父を失った怒りも込めて話し続けた」という。

生で聴ける最後の世代。継承に使命感

広島市中区の歓楽街にあるバーで毎月開かれていた被爆証言の会を、亡くなった主催者から2年半前に引き継いだのが、シンガー・ソングライターのHIPPY(ヒッピー)(39)。「高校時代、原爆はひとごとだった。(正面玄関そばにある)母校の慰霊碑すら記憶が薄かった」というが、証言の会参加者と、安楽寺に登世岡を訪ねるなど継承に力を入れる。

 高校時代はライブハウスに通ったり自宅でパンクロックを聴いたり。学生時代に歌手デビューを果たすが、10年ほど前の証言の会主催者との出会いで「被爆体験に衝撃を受けた」。数年前、祖父が入市被爆していたことを初めて知った。「被爆者は本当は体験を言いたくないんだと分かった。でも生で聴ける最後の世代」と使命感を燃やす。

 

 登世岡と同級生で西区の工場で被爆した、沼田自動車学校創立者の新原清人(90)は終戦直後、焼け跡でがれきの整理をしていた仲間たちとバレーボールを始めた。漁網をネットに、支柱は焼け残った廃材を使った。「これが崇徳バレーの始まり」という。生命保険会社に入り、東京勤務だった61年、母校の硬式野球部が初の甲子園出場を果たす。「日銀や石油元売り企業の幹部だった同窓生を訪ね、寄付金を集めた」。母校は戦後、着実に復興へと歩みを始める。=敬称略(編集委員・杉本貢)

メモ

<被爆状況>旧制崇徳中学の生徒512人、教職員10人が犠牲となった。生徒たちは当時、学徒動員され、中区の八丁堀付近での建物疎開や西区観音地区の機械工場でのタービン組み立て作業に従事するなどしていた。校舎は講堂の外壁以外は全て焼け落ちた。このため中区にあった小学校の校舎を借りて授業を再開、原爆投下の翌年の1946年11月末から一部復興した校舎に戻った。51年、教師の呼び掛けに保護者も協力し、敷地内に原爆供養塔を建立した。崇徳高校は74年から8月6日を生徒登校日とし、生徒全員参加の法要をしている。

投稿日: 2020年1月17日