【高校人国記】1 仏教の教えが活動の指針
人を思いやる心学び建設行政で活躍
仏教精神に基づく若者育成を目的に創設され、140年を超す歴史を持つ。このため中国地方各地から多くの僧侶の子弟が通った。
元建設官僚の黒川弘(79)は65年前の入学式でもらったという小冊子を取り出した。親鸞の教えや仏教歌などを記した「聖典」。鎌倉仏教に関心を持ち、今も月1回は鎌倉市の寺に通い、お経を読む。
安芸高田市の寺で育った。住職だった祖父の傍らに座り、お経を覚えた。小学校からの帰路、檀家(だんか)を回ってお経を読むほどに。祖父が崇徳の前身である第四仏教中学の卒業生だったこともあり、崇徳へ。「教わったことだけを勉強しても駄目だ」という教師の言葉で幅広く勉学に励んだ。
京都大法学部を卒業後、「国づくりに携わりたい」と建設省(現国土交通省)入り。河川、道路畑などを歩み、広島市の太田川放水路造りにも関わった。その後、都市局長などを歴任。2004年に研究者たちと地域マネジメント学会の立ち上げに関わり、18年春まで4年間、会長を務めた。原点は、寺での暮らしと高校時代。「人を思いやるという心など精神的な面で仏教思想の影響を受けた」
エコノミストとして知られる高橋乗宣(79)も安芸高田市の寺の長男だった。旧制崇徳中出身の父の影響で崇徳に進んだ。新聞部に所属し「学校のことをみんなで考えよう」と健筆を振るった。教育分野の研究者を目指し、東京教育大文学部に進んだが、キャンパスは60年安保闘争のさなか。学生運動に加わり、国際経済に関心を持った。
哲学科から経済学科に移り、大学院博士課程を修了した後、設立から間もない三菱総合研究所に。1980年代後半にはバブル経済の崩壊を予測し、注目を集めた。「みんなが気がついていないことを指摘するのは非常に重要」とし「自分で判断し行動する姿勢は、好き勝手にさせてもらった高校時代に原点があるかもしれない」と振り返った。
本質を追究する姿勢 担任の先生あってこそ
龍谷大学長の入沢崇(64)は「学びの原点は高校時代」と言い切る。尾道市の寺の次男に生まれ、「家から出たい」と崇徳に進んだ。しかし、2年生の時、受験を目的とする勉強が嫌になり不登校になった。
下宿先を訪ねてきた担任教師から「好きにしたらいい」と見守ってもらった。太田川河畔で西田幾多郎の「善の研究」などを読みあさった。その感想文を担任教師に届け、やりとりをするうち、学校に復帰した。
龍谷大で仏教文化の研究に専念し、08年までの5年間はアフガニスタン仏教遺跡調査隊の隊長を務めた。父が03年に亡くなり寺を継いだ。17年に学長になったが、週末は可能な限り帰郷する。「本質的なことを学ぶ姿勢は担任の先生あってこそ」と高校時代を懐かしんだ。
関西地区の僧侶などでつくる新電力会社テラエナジー(京都市)社長の竹本了悟(42)も江田島市の寺の次男だった。防衛大から海上自衛隊に入ったが、米兵からベトナム戦争の実態を聞き「人を殺せるだろうか」と自問自答するなどし退官。龍谷大大学院へ進み、本願寺派総合研究所研究員になった。
研究員時代の10年、仲間とNPO法人「京都自死・自殺相談センター」を設立し代表に。さらに18年、テラエナジーを設立した。19年春から中国地方で電力販売を始め、今後、近畿や九州、関東に進出する。「収益の一部を過疎地のお寺の維持費などに活用したい」。知人から引き継いだ奈良県の寺の住職を務めながら、中国地方を中心に営業活動を続ける。
広島市の寺の次男だった泉原秀(52)は南米に渡り開教使として活躍する。北陸などの寺で僧侶をした後、07年、真宗大谷派(東本願寺)の公募に応じ、ブラジルへ。サンパウロでの勤務後、現在はマリリア真宗本願寺を拠点に南米各地の門徒を訪ね歩く。
移民の際に日本から持ってきた仏壇を大切に使う門徒もいる。「先祖を大切にする気持ちが伝わり、感動する」という日々に高校時代を思い出す。「学園祭などで『一生懸命になれ』と怒ってくれた先生たちが懐かしい」=敬称略(編集委員・杉本貢)
メモ
<校名>崇徳高等学校
<所在地>広島市西区楠木町4の15の13
<校長>高木哲典(12代目)
<クラス数>1、2年が11、3年は12(いずれも普通科)
<生徒数>1098人(2019年度)
<校名の変遷>1875(明治8)年、浄土真宗篤信者により広島市中区胡町に専門道場「学仏場」設立▽77(同10)年、同区寺町に移転し、進徳教校と改称、5年後に現在地に移転▽1900(同33)年、仏教中学▽01(同34)年、広島仏教中学▽02(同35)年、第四仏教中学▽13(大正2)年、旧制崇徳中学▽48(昭和23)年、学制改革で現校名に
<校章>地紋の3枚のササの葉は、所在地の三篠地区と、仏教の伝統を象徴する三宝(仏宝・法宝・僧宝)を図案化した