卒業生の講演

山万株式会社 取締役副社長 林 新二郎氏 講演「ライフワークとしてのユーカリが丘の街づくり」 

「ライフワークとしてのユーカリが丘の街づくり」

                            山万株式会社
                            取締役副社長 林 新二郎

1.「街づくりの原点」

 私は匝瑳高校の3年間は当時伝説の鬼コーチのいた剣道部に在籍し、心身共に辛く厳しい稽古の日々を過ごしていました。高校の剣道部は中学時代に剣道部に入部し活躍していた生徒が入部するのが一般的ですが、私の場合、中学は体操部で高校になってから始めたので本当に大変でした。たまたま同じ中学からの仲間で同じく高校から剣道を始める同級生が男女共に一緒に入部したのが幸いし、3年間続けることが出来たのですが、今でも時々思い出します。今では私に試練を与え続けて下さいました亡き鬼コーチに感謝と共にご冥福をお祈りしています。不屈の精神は、間違いなくこの時期に培われたものです。また、その反動から大学4年間は法学部に在籍しながらもワンダーフォーゲル部に入部し日本国中の山を縦走し、沢登りや藪漕ぎ、冬には氷瀑登りや山スキー、またゴムボートでの川下り(ラフティング)等に没頭し、自分探しの旅としては充実した日々を過ごしていたと思います。

 旭の海沿いの片田舎で育った私は「山」への強い憧憬が有りました。山に登る為には、鉄道やバスを乗り継ぎ、時にはモーターボートをチャーターしたりもしましたし、川下りをする際にはゴムボートを購入し、伴走隊の自転車を現地の役所に行ってレンタルもしました。

 「ワンダーフォーゲル」は、ドイツ語で「渡り鳥」を意味しますが、産業革命以降の急激な近代化によってもたらされた人間性の阻害を自然主義をもって回復しようとする活動で、戦後、日本各地の大学で広く設立されました。大学での部活動ですから、計画書を作りOB会による事故対策委員会に諮り最終的な計画書を大学本部に申請し、行政や消防等の関係諸機関にも事前に計画書を送付します。登山にあたっても、事前に入念な訓練もしますが、雪上訓練の様な技術面だけではなく、命に係わる判断も生じる事からリーダー講習等も有ります。実際の登山では、リーダーはメンバーの体調や行動を注意深く観察し役割分担しながらピークを目指しますが、無事に下山し帰宅する迄がその役割となるのです。

 そうした学生時代の経験は今日の街づくりの原点になっていると言っても過言ではありません。諸国を遍歴し、美しき日本の国土に親しむ中では、各地の歴史や文化、政治や経済を知る事となりました。また、同時にその地域に住む人々の暮らし振りや家庭の幸福感をも感じ取る事もありました。そうした一軒一軒の営みとその集合体である集落、更にその集合体としての自治体、そして国家を考える様になっていました。当時、小田実著「何でも見てやろう」というそのタイトル通りの世界紀行を読みながら、いつかは自分もフルブライトの留学生にはなれなくとも、「世界を見て来よう!」と心に秘めていました。

 大学の卒業にあたり、旭市に生を享けてからの20数年間の自身の生い立ちを大学ノートに記しながら自らの進路と職業の選択を具体化して行きました。匝瑳高校の剣道部時代の欄には、「佐倉」に剣道の武道具店が有ったので、時々訪ねていましたが、「佐倉新町江戸勝り」とも称された江戸時代にタイムスリップしたような街並みに強烈な印象を受けたことを記したと記憶しています。そして、その自己分析の結果が、ライフワークとしての「街づくり」という仕事であり、「山万」という会社への就職でした。匝瑳高校剣道部時代にインプットされた「佐倉」の記憶と、大学時代に追い求めた「理想郷づくり」への欲求は、当時の大学生の就職情報誌「リクルートブック」に掲載されていた「山万」の会社案内に「ユーカリが丘」の開発構想を見たときに、完全に重なり武者震いしていました。そして、1983年4月、山好きな私がその名も「山万」に希望に満ち溢れて入社する事になったのですが、これも不思議な縁なのだと思います。

 前置きが長くなりましたが、本稿の寄稿にあたりましては、当初は阿曽OB会長から「街づくり」についてOB会だけを対象としたものではなく現役の学生にも参考になる様な話をして欲しいと講演依頼が有ったのですが、長引くコロナ禍によって講演は中止となり、その替わりとして改めて寄稿依頼があったものです。従いまして、そういった経緯から、当初ご依頼のあった趣旨を出来るだけ踏まえたものにしたいと思いますが、あくまでも私個人の経験や考え方に基づいていますので、ご笑覧頂ければ幸いです。

2.「ユーカリが丘開発とは」

 「ユーカリが丘」は、近年ではテレビや新聞・雑誌等マスコミでも取り上げられる事も多くなりました。ユーカリが丘駅前の映画館やウィシュトンホテルに行かれたとか、イオンや温浴施設・bayfmのスタジオの生放送を見に行って来た等、お陰様でご存知の方も増えましたが、佐倉市の西部に位置し京成電鉄ユーカリが丘駅を中心とした南北約250haに及ぶ土地に計画人口を3万人とするニュータウン開発です。

 開発着手(用地取得開始)が1971年ですので、既に50年が経過しています。開発にあたっては、京成本線の志津駅と臼井駅の間にユーカリが丘駅を新設し、この駅から南北方向に新交通システムの「山万ユーカリが丘線」を独自に敷設することで、住民の交通手段の確保を図りました。1970年代はモータリゼーションの急激な進展に伴い交通渋滞や排気ガスによる大気汚染など様々な都市の課題が表出していましたので、ユーカリが丘では公共交通指向型開発(TOD:Transit Oriented Development)をベースとしました。公共交通を検討する際には、当時多く採用されていた路線バスを運行することは排気ガスや交通渋滞を引き起こす危険性があった為、ユーカリが丘駅を起点としてニュータウン内6駅をテニスのラケット状に結ぶ新交通システム(VONA:Vehicle of New Age)を採用したのです。

 ユーカリが丘の開発は大きく3期に分けて開発を行っています。第1期・第2期の開発については開発行為による許可を取得し、第3期については土地区画整理事業として宅地造成を行いました。

 ユーカリが丘の開発着手当時の開発テーマは、「自然と都市機能が調和した21世紀の新・環境都市」としていて、駅前は千葉県下初の超高層建築群を築き、低層部分には商業・医療・文化施設などを整備し都市機能を集約させる複合的な立体開発を行う一方で、一戸建てを中心とした住宅地は山万ユーカリが丘線の各駅から徒歩10分以内を目途とした平面開発というコンセプトを徹底しました。

 ユーカリが丘駅前地区については現在イオンタウンが立地しているエリア迄の徒歩10分程度の圏域を駅前商業エリアとして位置づけ、スーパーマーケットなどの商業施設はもちろんのことホテルや映画館、カルチャーセンター、医療モールなどを次々と建設し、テナントとして誘致しましたが、ホテルや温浴施設等は関連会社を設立し自社運営としました。また、将来の人口増加や交通集積に対応できるようにペデストリアンデッキ(立体遊歩道)を建設することによって、歩車分離を図り駅周辺を利用する歩行者が安心して歩ける環境を整備しました。

 一方、住宅エリアについては、分譲当初から建築協定や緑化協定によって住宅地としての街並み維持・保全に向けた規制をしていましたが、自主規制の失効に伴い、周辺の不動産業者による区画の細分化等の動きが現れ、一時的に街並みの維持が危ぶまれました。結果的に、そうした区画は全て買戻すことによって土地の細分化による街並みの悪化を回避しました。その経験から都市計画法に定められている地区計画制度を利用してユーカリが丘内の全丁目、全エリアにわたって地区計画が条例化され、街並みの維持や保全が担保される事となりました。

3.「街づくりへの挑戦」

 ニュータウンと言うと、住宅団地を思い描く方が多いと思いますが、ユーカリが丘と他のニュータウンとの大きな違いは、「街づくり」に徹底的に拘って来たという点です。日本国内で、半世紀以上に亘って計画的に街づくりをしているニュータウン開発の事例は存在しません。そうした点からも稀有な開発であると言えますが、民間ディベロッパーであるが故にユーカリが丘の様な大規模開発には莫大な資金が必要であり、従来はそうした長々期に亘る開発のビジネスモデルは存在しませんでした。

 私企業である以上、事業の効率化によって利潤の最大化を追求する事が求められますので、事実他のディベロッパーは用地の取得から販売終了迄の期間は長くても概ね10年を目処として計画されて来ました。私はそうした開発を「分譲撤退型」と言っていますが、その手法は企業経営としては極めて効率的です。そして、戦後日本の高度経済成長は大量の労働力が大都市に集中したことでもたらされましたが、その受け皿として、ニュータウン(ベッドタウン)開発が一定の役割を果たしたのも事実です。

 山万がユーカリが丘開発以前の昭和40年代に開発した神奈川県横須賀市での「湘南ハイランド」も同業他社同様に「分譲撤退型」でした。当時のニュータウンは、30代、40代を中心とした平均的な世帯向けの住宅を供給する事が優先され、街全体の将来像は殆ど想定されていなかったのです。その為、今日の様な少子高齢化や環境共生化・高度情報通信化等といった社会構造や環境の変化に伴ったハードとソフトの両面での街の対応策は講じられておらず、短期間に集中的に移り住んだ世代が、そのまま大量に高齢化してしまう、所謂「ニュータウン」の「オールドタウン」化現象が全国的に現れました。

 ディベロッパーは、分譲事業が終了してしまえば基本的にはそこに住む住民との関係も行政任せとなり撤退することとなります。撤退は、分譲主としての様々な煩わしさからの解放にもなる事から企業としての合理性の観点からは有効とも言えます。しかしながら、山万のユーカリが丘開発での選択は「企業としての合理性」ではなく、長期時間軸での「街づくり」であり、その手法は「分譲撤退型」ではなく「街の成長管理型」としたのです。

4.「街の成長管理」

 「ユーカリが丘」では分譲当初から年間の供給戸数を200戸程度として39年間定量供給を続けて来ましたので、現在7850世帯、18800人余りとなっています。こうした定量供給は、社会環境や社会構造の変化に伴う各種の分析やその結果に基づく対策の立案と実践を可能とします。これが「成長管理型」の街づくりです。ユーカリが丘は現在も世帯数、人口ともに増え続けています。

 このように民間企業が単なる不動産開発ではなくハードとソフトの両面での「街づくり」を行っていくためには、明確な街づくりのビジョンと共に、短期的に利益を追求するのではなく、長期的な時間軸で捉えて長期安定型の経営方針を持つことが重要です。

 また長期的なタウンマネジメントの手法として「住民」・「行政」・「ディベロッパー」による「三位一体型の街づくり」が必要と捉えています。そして、成長管理型の街づくりを行っていく中では、住民との合意形成を図り、更に行政との協議を重ねながら街づくりを行っていく必要性から、我々ディベロッパーが住民と一体化し自治会や街づくり協議会・社会福祉協議会・NPO法人・商店会等の各種団体の活動に関わっていくことが必要不可欠となります。そのために私を含めた役員・社員の半数近くはユーカリが丘内に居住し各種団体の活動にも参加しながら街づくりを実践しているのです。

5.「住み続けられる街づくり」

 2015年、国連が採択した持続可能な開発目標「SDGs」17の目標の11で「住み続けられるまちづくりを」が掲げられましたが、その発表の際には「我が意を得たり」でした。まさしくユーカリが丘が目指して来たそのものなのです。住み続けられる街とするために、ユーカリが丘では「ユーカリが丘ハッピーサークルシステム」(図2)という取り組みを、2005年から始めています。

 その1つがユーカリが丘にお住まいの方が新築住宅に住み替える際に、現在お住まいの自宅を査定額100%の価格で買い取るという仕組みです。通常不動産の買取は査定価格の70%~80%程度の価格で買い取ることが一般的ですが、自宅に住みながら売却をすることは大変な煩わしさを伴う為、独自の買取の仕組みを構築することによって、年齢や家庭環境の変化に合わせたスムーズな住み替えを可能としたのです。

 また買い取った住宅については、若い世代向けにリフォームをした後に、ニュータウン内の新築住宅よりも割安な価格で再度販売を行っています。その結果として、例えば開発当初に分譲した戸建て街区では、時間の経過とともに街区内の住民の高齢化は進み、その街区から高齢世帯が駅前の新築マンションに住み替えをする一方、買い取った一戸建てはリフォームを実施したリノベーション住宅として販売し、若い世代が購入し居住することでその家に住む世代が若返り、街区内の世代交代が進んでいくことを想定しているのです。定量供給によりニュータウン全体としての年齢バランスをとると同時に、街区単位で新陳代謝を進めることで、持続可能な街が形成されていくことになります。

6.「千年優都・・・シティミレニアム」

 常に変化する人口動態や社会情勢等を踏まえた「住み続けられる街づくり」を推進する為に、1997年からは、「開発テーマ」を「千年優都・・・シティミレニアム」としました。

 例えば、少子高齢化対策は現代日本の街づくりとしては最重要事項の一つとなっていますが、そのうちの少子化対策の一環として、1999年にユーカリが丘駅前に園庭付きの保育所を開設しました。成長管理型の開発を行っていく上では、データの分析が重要となります。ユーカリが丘では、数年ごとに全世帯を対象としたアンケート調査を実施し、中長期的な経営戦略を検討する際には重要な基礎データとしています。当時、保育所問題は表面化していませんでしたし、実際に民間では何処も保育事業をやっていませんでしたが、ユーカリが丘での住民アンケート結果からは、その必要性が明確でした。無認可保育所として開設せざるを得なかった駅前保育所は、開設から5年後の2004年に千葉県下初の民設認可保育所第一号となりました。直近では、学童保育を含めて日々約700人をお預かりしています。

 一方の高齢化対策としては、日本版CCRC(生涯活躍の高齢者コミュニティ)の実現の為に1997年に「福祉の街づくり構想」を発表し、社会福祉法人を設立して約15haの規模を「総合福祉エリア」として展開することにしました。老健施設・グループホーム・有料老人ホーム・在宅支援センターを次々と整備、運営して来ましたが、2017年には医療機関として病院を傘下に入れ、昨年からは訪問診療を開始しました。今年の3月には特別養護老人ホームを開設し、健常者の在宅支援から要支援1~要介護5の方までの全施設介護と訪問医療~病院入院までの一貫した介護・看護・医療体制を構築出来ましたので、所謂「地域包括ケアシステム」がユーカリが丘地域で社会実装されることになりました。

 また、2009年には「エリアマネージメントグループ」という部署を創設しましたが、これは全世帯を対象として一軒一軒の戸別訪問活動をすることによって、より一層きめ細やかな住民ニーズに対応する為の仕組みなのです。

7.これからのユーカリが丘「ミリオンシティ構想」

 日本全体として少子高齢化が進む中で、匝瑳市や旭市においても1995年の国勢調査で人口のピークアウトを迎え、以降人口減少が続いています。ユーカリが丘が位置する佐倉市においても2015年をピークに人口減少に転じましたが、先述の通り、ユーカリが丘では計画的な定量供給と少子高齢化対策を始めとする各種の対策によって、未だ人口増加が続いています。「住み続けられる街づくり」の社会実験とも言えるこの挑戦はまだ続きますが、ユーカリが丘は更に拡大と進化を続けることになります。

 昨年末に発表した「ミリオンシティ構想」がそれですが、ユーカリが丘北口駅前を再開発して30年先を見据えた新しい街を創ります。既にシェアオフィスやコワーキングスペースはコロナ禍以前の2019年に整備済みですが、成田空港に近いエリア特性を活かして更に若手起業家が集まれるように企業のインキュベーションを促進します。また、都会と田舎のそれぞれの良さを具体化して新しい住まい方提案を積極的に展開します。そして、それらはAIやIOT等の技術の進化によってDXが推進されることから、街づくりにどう反映させるかが課題となります。

 ユーカリが丘では「高度情報通信化社会」への対応の一環として、1987年、千葉県初のCATV放送を開始していますが今後のDXへの進化のスピードは従来とは比較にならないものとなります。ユーカリが丘のタワーマンションにて8年前に「顔認証システム」を導入しましたが、今現在は「山万ユーカリが丘線」とユーカリが丘内を走るコミュニティバス「コアラバス」を顔認証で乗り降りが出来るだけでなく、決済機能も紐づけた社会実験を開始しました。今後はそういった技術をショッピングや医療・介護等にも応用する予定です。

8.結びに

 ユーカリが丘の街づくりは、その理想とする形が国内には無い事が多く、その為海外にそれを求めて良いところだけを輸入し、国内用にアレンジしながら独自の街づくりをして来ました。「新型コロナ」以降、日本の街づくりは地球規模の環境の変化に伴う災害対策や世界的にも稀有な少子高齢化に対する対応等、従来以上に未来予想図が描きにくい状況下にあります。そして、SDGsが国や企業を含めた世界共通目標となった今日、企業の社会的使命が問われています。今だからこそ、国内外の先人達の叡智に学びながら社会的課題の解決とアフターコロナを見据えた経済の再生を両立しながら「住み続けられる街づくり」に挑戦し続けて行きたいと思います。 

 

 

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