同窓生へのインタビュー1

水谷 泰子 (医短3回生)
三重大学医学部附属病院 副看護部長

2021年9月現在

Q. 卒業後(から現在まで)の進路は?

A. H6年3月に医療技術短期大学を卒業し、4月には三重大学医学部附属病院に就職して看護師人生をスタートさせました。最初は旧9北病棟(脳神経外科)への配属でした。看護師7年目には旧8東病棟(第1内科)に異動しましたが、約2年でまた元の旧9北病棟へ副師長として戻りました。その後旧9北病棟で師長になって、新病棟開院まで脳神経外科や神経内科の病棟師長として過ごしました。この時に三重大学の修士課程(現三重大学大学院医学系研究科看護学専攻博士前期課程)へ進学しました。新病棟開院前の約9か月は、新病棟では同じ病棟となる脳神経外科と神経内科の病棟、つまり旧9北病棟と旧10北病棟をダブルで担当しました。2つの病棟の師長は大変なこともありましたが、振り返ってみると10階と9階を日に何度も行き来して楽しい日々でした。その後は、新病棟開院の8南病棟(脳神経外科・脳神経内科)を経て、今度は病棟から離れた医療安全管理部に異動となりました。最初は患者さんがいないことに寂しい思いがありましたが、多くを学ぶことができました。特に、病棟の師長でいるだけではよくわからなかった、病院全体の動きに触れる機会が多く、現在の副看護部長という役割を果たす上でも、大いに役立っていると思います。医療安全管理部では2年間お世話になり、副看護部長になりました。このように、私は医療技術短大卒業以来ずっと附属病院でお世話になり、気づけば27年の時がたってしまいました。

Q. 看護師を目指したきっかけは?

A. あまりにも昔のことすぎて、詳細はあまり覚えてないです。それでも記憶をたどれば、中学の時に母が入院し、それに付き添った経験がきっかけだったように思います。その際に、クリニックではなく入院病棟の看護師の仕事を目にする機会があり、私も看護師になろうかなぁと考えたのだと思います。しかしそのきっかけは、よくある看護師さんにやさしくしてもらったなどということではなく、よくわからないなりにも「こういう仕事は世の中のためになるし、ずっとなくならない、そして、ずっと続けられるだろう」と考えたことがきっかけだったように思います。
これに関して、もう1つ思い出したことがあります。私が高3の頃というと、世の中受験ブームでした。私は進学校に通っていましたが、先輩にも周囲の友人にも看護系に進学する生徒などおらず、先生方は看護系大学や短大の情報などほぼ持っていない状態でした。親戚など周囲の人に「看護婦になろうと思う」と話すと、「なんで看護系なの?」「そんなたいへんな仕事を選ばなくてもいい、女性ばかりの仕事はいろいろ大変そうだからやめなさい」と反対されることもありました。しかし、両親は反対することなく私のやりたいようにさせてくれたので、三重大学医療技術短大へ進学することができました。当時、看護系大学は日本で数校しかない時代でした。あれから30年ほど経過し、今や250を超えています。看護という仕事が、いかに世間で大切な仕事であると認識されているかという証拠だと感じています。

Q. 看護管理者として大事にしている思いは?

A. 大学教授の中原淳さんの著書で『駆け出しマネジャーの成長論(中央公論新社)』という本の中に、マネジャー(私は管理者と置き換えました)の仕事は「Getting things done through others(他者を通じて物事を成し遂げた状態にする)」ということが出てきます。私は、管理者にとって大切なのは、まさにこの感覚だと思っています。看護師の仕事は、患者さんにより質の高い看護を提供することです。ですが、管理者は看護師であっても、決して自分で直接何を実行できるわけではありません。患者さんに直接看護を提供する、あるいは、提供できるのは第一線で活躍する看護師の方々です。ですので、管理者には、この第一線の看護師の方々が少しでも看護をしやすくなるように、質の高い看護を提供できるように、いろいろな環境を整えることが求められていると思います。そのためには、まず自分自身が現場に足を運び、何が起こっているのか自分の目で見て、第一線の方々から直接話を聞くことを大切にしたいと考えています。
また、もう1つ大切にしたい思いがあります。私は、看護を提供された患者さんが「この看護師さんに看護してもらってよかった」と思うことと同時に、看護を提供した看護師自身が「やってよかった」と思えることが大事だと思っています。看護師という仕事は、自己犠牲の上に成り立つことも多いと思います。しかし、それだけでは辛すぎます。「やってよかった」と思える経験が、「もっとやってみよう」という次のステップに繋がると思います。看護師は専門職ですから、このようなことを繰り返して日々成長することは大切であると思うのです。そして「やってよかった」と思えるためには、自分の行ったことに責任を持ち、かつ、リフレクションし、自身の提供した看護の意味や価値を考えらえることが大切で、管理者としてこのような人材を多く育てていくことを大切にしたいと考えています。

Q. 三重大学大学院看護学専攻修士課程(博士前期課程)へ進学した理由は?

A. 看護師長になったとき、三重県看護協会の看護管理者教育課程であるファーストレベルを受講しました。看護管理の仕事をするということは、これまでの患者さんへの看護とは異なる知識やスキルを必要とします。私は、管理者にとって必要なスキルの1つは「現象あるいは事柄について論理的に相手に伝えられること」であると考えていました。そして、ファーストレベルで学ぶ中で、管理者として「看護師は何をする人なのだろうか」ということを経験知だけでなく、これまでに研究され形式知となっていることも踏まえて、きちんと誰かに説明できるようになりたいと思いました。そこで、修士課程で学びを深めることによって、物事を論理的に見る能力を養えるのではないかと考えたのです。
また私には、あくまでも臨床で仕事をする中でこの疑問を解いていきたいという思いがありました。そのため、仕事を辞めずに職場の近くに学べる場所があったというのも、修士課程への進学を決めた理由の一つです。

Q. 看護の魅力は何ですか?

A. 卒業後の進路の中でもご紹介しましたが、私はこれまで看護師としての時間の多くを脳神経外科の病棟で過ごしてきました。脳神経外科では、病気や外傷などで意識がなかったり、四肢麻痺を来たしたり、お話しできなくなったり、これまで人として当たり前に一人でできていたことができなくなってしまう患者さんに多く接しました。そして、そのような患者さんは、自分から他者へ何かを伝えることもできなくなる場合が多くありました。医師の治療で、命を救えたり病状の進行を抑えたりすることはできたとしても、その人がその人らしく生活するということについては叶えることが難しい状況も多くありました。そんな中、力を発揮するのが看護です。看護師は、毎日24時間ずっと患者さんのところにいました。そのため、たとえずっと意識がなく寝たきりの患者さんであっても、時間の経過とともに少しずつ変化していることに気づくことができました。変化というのは、目覚めて何か話をするようになったなどという劇的な変化ではなく、「少し手を動かすようになった気がする」「声のする方に顔を向けたような気がする」という、“気がする”という感覚であることの方が多かったです。しかし、それをきっかけにして、“もしかして、この患者さん、何かできることがあるかもしれない”という看護師の気づくセンスとチャレンジよって、これまで寝たきりであった患者さんが徐々にベッドから離れ、何かをできるようになるということを多く経験しました。
1つ経験を紹介したいと思います。患者さんは交通事故にあった10代の女性でした。意識障害が強く、刺激を与えても何の反応も得られない状態が長く続いていました。時間の経過とともに、何か訴えたいような唸り声をあげることが多くなってきましたが、唸り声では誰かに自分の意思を伝えることなどできません。患者さんは自分の意思を伝えられないもどかしさのためか、大きな唸り声をあげることが多くなっていました。そんな中、当時のスタッフ間で話し合ったのは、「この患者さんは、声を使って自分の意思をこちらに伝えることはできない、でも何か訴えようとしているのは間違いない。ダメもとで一度ペンを渡してみよう。もしかして何か書けるかもしれない。」ということでした。そして、この看護師の思いがけない発想と何かできることがあるはずという信念と行動力で、患者さんを座らせ、ペンを持たせたところ、なんと、文字を書くことができたのです。患者さんの可能性を信じてやってみて良かったと感じました。ちなみに、この患者さんはその後どんどんリハビリが進み、数年後に復学することもできました。
このような経験を繰り返す中で、看護の魅力は「患者さんがその人らしさを取り戻すために、直接何か力になれる。しかも看護師のアイディア次第で何でもできること。」だと考えるようになりました。