171 軍都廣島

被爆建物である旧広島陸軍被服支廠の倉庫施設は、国の重要文化財になることがほぼ決まり、その保存及び平和学習の拠点としての新たな活用方策も示されました。

太平洋戦争末期、西条農業高校の前身である西条農学校に被服支廠の出張所事務室が置かれ、賀茂高校の前身である賀茂高等女学校は被服支廠の分工場となりました。女学校の教室には多くのミシンが運び込まれ、学徒勤労動員の通年化によって「学び」の機会を奪われた3年生(14歳ないしは15歳)たちは、軍属の一員として軍服等の縫製作業に従事する日々を送りました。

師走にもかかわらず、春のような陽気に誘われ、自宅から寺家の「道の駅 西条のん太の酒蔵」に向けてウォーキングにでかけました。しばらく歩くと、株式会社オンドの本社東社屋とその先に刈又池が見えてきます。この周辺は、1943(昭和18)年に広島陸軍兵器補給廠及び広島陸軍被服支廠の八本松分廠が設置された場所です。

現在それらの建造物や遺構は見られませんが、池岸には旧陸軍の敷地を示す標柱が残っています。兵器補給廠には火薬や砲弾などとともに、忠海の大久野島で製造された毒ガス兵器も保存されていたそうです。また、「原爆市長」(浜井信三)の本によれば、終戦後まもなく、この山中に保管されていた大量の軍服やシャツは、西条農学校の生徒らによって西条駅へ運び込まれ、列車にて広島貨物駅まで輸送されました。そして、原爆投下によって私財を失った広島市民に配給されたのでした。

戦後、八本松分廠の敷地や国有林の一部は、旧国鉄の材修場(鉄道レールの製造)として使用された後、シャープ株式会社第三工場を経て現在はオンドの敷地になっています。八本松には旧海軍の弾薬庫(現在はアメリカ軍の川上弾薬庫)や旧陸軍原村演習場(現在は陸上自衛隊の原村演習場)もありましたが、軍都であった廣島市だけではなく、旧賀茂郡(東広島市)周辺においても、その歴史の掘り起こしと伝承が大切ですね。

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