040 思いを馳せる
広島市立本川小学校の平和資料館を訪ねました。校舎の東に本川、その対岸には修理中の原爆ドームが見える爆心地にもっとも近い学校です。疎開中の児童を除き、410名もの教職員及び児童が犠牲となりました。賀茂高等女学校在学中、救援活動に参加した芥川賞作家 大庭みな子は、エッセイ「地獄の配膳」の中で「八月の末から九月にかけて、県下の女学生たちは原爆後の救援に動員された。二、三十人の私たちの班が配属されたのは太田川のほとりにある小学校で、鉄筋のなかなか立派な校舎だったが、行ったときは窓ガラスは一枚もなく、吹き曝しの鉄骨とくずれた壁だけの残骸であった。そのとき広島市は見渡す限り瓦礫の原で、文字通り市街は壊滅の状態だったから、ともかくも形骸をとどめている建物というだけでも貴重な避難所だったのだ」と記しています。新校舎が完成した昭和63年から被爆校舎の一部及び地下室が平和資料館として一般公開されています。