令和6年年頭、会長挨拶更新による前挨拶の移転

 明けましておめでとうございます。皆様におかれましては、輝かしい新春をお迎えのこととお喜び申し上げます。

 銚子といえば、昔から白砂青松の君ヶ浜と犬吠埼、屏風ヶ浦、観音様などが挙がります。

 時は19世紀の始め、あの伊能忠敬は幕府の測量方として、房州から九十九里沿岸を測量しながら銚子に入りました。田中玄蕃家分家に宿泊し日夜測量に励みます。そして、筑波山、日光山などを測量、翌日ついに富士山の方位測量が叶いました。犬若から富士山を確認することができ、小躍りして喜んだそうです。夏の銚子からは富士山が見えることは稀ですが、銚子から千葉、川崎、富士山が一直線上につながったのです。現在は、冬の朝や夕方、空気の澄んでいる時に、屏風ヶ浦の隣に見えます。こうして伊能は重要観測ポイントから、目標物を確認するという方法で、日本初の実測地図を作り上げました。

 さて、銚子という地名が、いつ頃から使われ始めたのでしょうか。次の二つの資料から確認します。

①「元禄4年(1691)11月、漁入会訴訟一件、下総国銚子外浦内浦」(『玄蕃先代集』より)、最も古い銚子地名所見の文献。

②猿田神社本殿横にある石灯籠竿石の銘に、「奉寄進猿田権現神前、宝永5年(1708)3月、銚子外浦酒屋又兵衛」、銚子の名の見える最古の金石文。

 幕末には銚子という地名もすっかり定着し、安政2年(1855)創刊、赤松宗旦の地誌『利根川図志』には、「そもそも銚子は関東第一の湊にして人家五千に余れりといふ、(中略)東国三社を参詣、銚子浦遊覧する人多し」という記述もみられます。成田不動尊や香取神宮・鹿島神宮・息栖神社の参詣、銚子磯めぐりなどが活発になりました。銚子が地名として固定するのは明治以降です。

 このように銚子には、歴史や景観、産業などのポテンシャルがいくつもあります。今年も皆様とともに、ふるさと銚子と母校市立銚子高校の魅力を発信していきたいと思います。

  なお、今年の同窓会関係の日程は、3月4日(金)に3年生対象の同窓会入会式、翌日の3月5日(土)に卒業証書授与式と続きます。7月24日(日)には、市立銚子高校同窓会総会と講演会の開催を予定しています。

 長引くコロナ禍での厳しい経済環境の下、新しい年を乗り切っていきたいと思います。生徒の皆さんには、これからも健康に留意し、進路実現に向け全力で取り組んでください。

 最後になりましたが、会員の皆様には、温かいご支援とご協力に感謝申し上げますとともに、皆様のご多幸とご活躍を祈念申し上げます。

同窓会会長 伊勢﨑 翼