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『神奈川県立横浜第二高等女学校 二代校歌』

『神奈川県立横浜立野高等学校 校歌』

 

校歌・校章

神奈川県立横浜第二高等女学校 初代校歌

作詞:佐佐木信綱     作曲:幸田延

をしへのみちの
みことのり
われらが日々の
おしへなり
みそらににほふ
富士のみね
われらがむねの
かがみなり
もゝふねちぶね
つどひよる
湊のさかえ
きはみなし
さかゆるみよの
みめぐみに
み国の花と
咲きいでん

〔解説〕ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
神奈川県立横浜第一高等女学校(※1)及び神奈川県女子師範学校(※2)の校歌と同一のものです。
本校では、1936(昭和 11)年の開校時から、二代校歌が制定される 1940(昭和 15)年まで歌われました。
 ※1 現在の神奈川県立横浜平沼高等学校。
 ※2 現在の横浜国立大学教育学部の母体のひとつ。

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神奈川県立横浜第二高等女学校 二代校歌

作詞:国語漢文科     作曲:橋本國彦

大君の
み光近く 仰ぎつゝ
百船集ふ 海青し
立つや丘べの 学びやに
明るくつよき 身と心
あした夕べに 鍛へなん

賜はりし
をしへの勅語(みこと)   畏みて
進まん道は   いや遠し
梅の校章(しるし) を  胸にして
操は浄(きよ) き  をみな子の
重き務に   励みなん

皇国(すめぐに)の
基(もとゐ)はとはに   堅くして
栄ゆる御代は   きはみなし
富士の高嶺を   望みつつ
御民の道を   一すじに
扶(たす) けまつらん  大御業(おほみわざ)

〔解説〕ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 神奈川県女子師範学校 (※1)の校歌と同一のものです。
 第1回卒業式を来春に控えた 1940(昭和 15)年 11 月、紀元 2600 年記念事業(※2)の一環として制定されました。
 作詞は国語漢文科の教員たちが、作曲は東京音楽学校 ※3)教授の橋本國彦が行いました。
 待望の新校歌でしたが、戦後の時代潮流の中で封印され、わずか数年間しか歌われなかった悲運の校歌となりました。

 ※1 現在の横浜国立大学教育学部の母体のひとつ。
 ※2 神武天皇(伝説上の初代天皇)の即位から 2600 年を記念し、全国各地でさまざまな記念事業が催された。
 ※3 現在の東京藝術大学音楽学部。

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神奈川県立横浜立野高等学校 校歌

作詞:神保光太郎     作曲:中田喜直

丘のぼる時   あおぎ見ぬ
三年を誓いし   学び舎よ
今日 われら   ここに 鍛う
ああ   青春   いのちは 燃えて
友よ   興そう   新しき日本の未来
立野   高校立野   われらが母校

朝さわやかに   陽をあびて
永遠なる姿   不二の峰
今日   われら   ここに 競う
ああ   青春   契りはかたく
友よ   手折ろう   朽つるなき真理の花を
立野   高校立野   われらが母校

海はろばろと   船は航( ゆ)く
世界の風の   呼ぶところ
今日   われら   ここに 努む
ああ   青春   矜持( ほこり)は高く
友よ   開こう   大いなる世紀の扉
立野   高校立野   われらが母校

〔解説〕ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 戦後の 1948(昭和 23)年、本校は高等女学校から新制高等学校(神奈川県立横浜第二女子高等学校)となり、その2年後の 1950(昭和 25)年には女子校から男女共学校(神奈川県立横浜立野高等学校)となりました。
 それから6年後の 1956(昭和 31)年2月、待望の新校歌が制定されました。このときの状況が、次のように伝わっています。

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「修学旅行に行ったときバスガイドさんが『生徒さん、それでは校歌を』と言ったんですが、当時うちの学校は男女共学になったので、校歌がないわけです。それで気まずい思いをしたことがあるんですが、そのうち、やっぱり男女共学になったんだから校歌を制定したほうがいい、という気運がだんだん盛り上がってきた」( 『立野 神奈川県立横浜立野高等学校創立五十周年記念誌』、1986 年)

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(校地・校舎が)「何といっても手狭で不充分なものであった。その中で不自由な学習を強いられている生徒達を精神的に鼓舞するようにと新しい校歌を作って歌わせた。

 これらは生徒達に不備な環境の中でも精一杯勉強せよとの三河校長の深い愛情のあらわれであったように思われる」 (『たての』24、1990 年)

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 作詞は日本大学芸術学部教授で詩人の神保光太郎が、作曲はフェリス女学院短期大学音楽科 (※1)講師の中田喜直が行いました。
 歌詞の中の光景は旧校地( ※2)のものであり、現在本校が所在する本牧間門のものではありませんが、本校を象徴するもののひとつとして今でも歌い継がれています。
 ※1 現在のフェリス女学院大学音楽学部。
 ※2 現在の横浜国立大学教育学部附属横浜小学校の所在地。本校も 1964(昭和 39)年2月まで所在した。

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校  章

 左から、横浜第二高等女学校、横浜第二女子高等学校、そして現行の横浜立野高等学校のものです。
 梅の花の意匠は、本校の母体であった神奈川県女子師範学校の校章と同一のもので、本校の校章として今でも受け継がれています。 ※1)
 梅の花は、「学問の神様」として名高い文人貴族 菅原道真が愛したことから、学問の象徴とされてきました。その精神は、「梅の校章に象徴された香り高い人格の形成」という本校の教育目標にもあらわれています。
 なお、開校当時のクラスは松組と竹組の2クラスでしたが、校章の梅を加えることで、「松竹梅」が揃うようになっていたのです。

 ※1 同様の事情で、横浜国立大学教育学部附属横浜小学校の校章も同一の意匠である。