石原信雄氏は、群馬県佐波郡剛志村で生まれ、群馬県立太田高等学校、東京大学法学部第3類(政治コース)を卒業後、地方自治庁に入庁しました。彼は、自治省官僚時代に自治医科大学の開学に関わったほか、東京都知事選挙落選後は大宮操車場跡地への10省庁18機関の移転に関与しました。また、埼玉県さいたま市の合併や政令指定都市移行にも関わり、平成の大合併では講演会や顧問などの形で様々な市町村合併にも関わっています。
石原信雄氏の功績は、官僚機構の取り纏め役としての手腕と、人脈を最大活用した官邸記者クラブ詰めの記者たちの影響によるものでした。彼の在任期間中、各社の「石原番」は駆け出しの政治記者がほとんどで、彼の言動に細心の注意を払った記者たちがいました。
石原信雄(中44)
母校人物群像


