① 岡 治道 (おか はるみち)(中学8回)
日本の病理学者
1891年生まれ
海軍軍医であった父とともに太田町で育った。
1917年から東京帝国大学病理学教室に勤務。
1927年からは、東京市療養所医員となり、結核症の医療に従事。
1941年からは結核予防会研究部長、所長を務めた。
結核の初期感染の発見とそれに基づく予防を目指し、エックス線検査による結核診断に道を開いた。
②下山 重丸(しもやま しげまる)(中学17回)
国際的庭園家 日本造園協会のドン
1900年(明治33年) ~ 1998年(平成10年)
群馬県太田市出身。
1918年に渡米し、1919年にカリフォルニア大学に入学。
1924年に卒業し、建築学士の称号を得る。
その後、ハーバード大学デザイン大学院に進学。
そこの院生をして、都市計画の中に位置づけされた造園を専攻する。
卒業後ジョン・ノーレンやアーサー・コミーの国際的事務所に勤務し、都市計画やプランニングを担当し、
1938年に帰国。
中島飛行機に就職し、後に明治大学建築学科で講師も務めた。
③小山 五郎(こやま ごろう)(中学25回)
日本の銀行家。三井銀行(現:三井住友銀行)の社長、会長を歴任。
1909年3月25日生まれ。
三井グループの命取りになりかねなかったイラン・ジャパン石油化学の後始末で尽力したが、
この件では旧制静岡高校の同窓だった中曽根康弘の協力を取りつけたとも言われている。
三井のドンとも言われた。
妻は福沢諭吉の曾孫。
④本島虎太(もとじま とらた)(中学44回)
元太田商工会議所会頭。
37歳の若さで就任以来、在任13期の39年 日本最長。
旧制五高時代に患った「骨関節結核」の療養のため、医学の道を断念。旧制太田中学時代からの旧友である
元内閣官房副長官、石原信雄氏は「本島君は政官財の幅広い交友関係を活かして、今日の太田市の発展に大きく貢献した」と語っている。

