「山ぶどうの会」同窓会報告(2025年5月19日)

クラブ・クラス会

朝井総子(学15EA)

同窓会日時 2025年5月19日(月)
場所 京都駅ビル「がんこ」
出席者 7名

この会の合言葉は「北海道・上沢木小学校」。
きっかけは夏も終わりの頃、外大生山田さんと原さん(学11P)がその地を訪問したことだった。
続いて第二次、第三次、第四次と外大生グループが辺地の開拓村へと向かった。
酪農家の血の出るような努力も空しく、やがて廃校、廃村となり、村から人が出て行った。

65年前の話ではあるがこの会はほぼ定期的に続き、今年は京都駅ビルで楽しいひとときをもった。全員80歳を超え、毎回ほぼ全員出席というのは有難いと心底思う。

一昨年、一人旅の途中、立ち寄ったニセコ町駅舎で一人の青年にであった。
その日、宿泊するホテルへの行き方を聞くため話しかけた。
親切なその青年はオホーツク海沿岸の雄武町を更に内陸へ入った上沢木というところからニセコに遊びに来たといった。
今の上沢木がどうなっているか、ぜひとも聞きたかった。

昭和60年頃のこと。長年のひどい冷害と貧困にあえぐ開拓農家の子らに文房具ほかの教育支援を続けていたロシア学科の山田晶一さんのこの活動を、河合慎吾教授の教育社会学の講義で知り、在学中、楽しい居場所であった外大パーラーに張り紙がされたこともあり友と応募した。
それからアルバイトの日々。何もかもが希望に満ちていた。
上沢木村の子どもたちと一緒に遊び、勉強するということだった。

2年連続の冷害に見舞われ、離村農家が相次ぎ、児童数は10人ばかりになっていた。
そこは草も花も木もすべてが内地のものとは違っていた。
村は大きな家族、子どもはみな兄弟。夜になると家族団らんに招待された。
はじめて会う子らは骨格たくましく、やや恥ずかしがりやで伏し目がちだったが、その顔にはきりっとした根性がうかがえた。
今、その写真をみると子どもたちの目の輝きや目の力が強烈であるのに驚く。
学校に泊まり、一日中子どもたちと遊んだ。川遊び、野遊び、魚つかみ、散歩。
内地へ帰る頃には秋風が吹いていた。

その後数年もしないうちに廃校、廃村となる。
その後、20年近く前だろうか。当時の在校生が日の出岬という景勝地で同窓会を開いてくれ、バスに乗って学校跡へ向かった。
草が生い茂り建物がぽつんと。もう立派なおじさん、おばさんになった大勢の卒業生といっしょに記念写真を撮った。いまでは町の職員になった方に上沢木村の新しい名所を案内してもらった。
また去年秋にはのちの校長、太田氏ご夫妻が関西に来られ、山田さんや河上さんと歓談された。細い長い糸で上沢木と繋がっているようだ。

(上沢木小学校は昭和30年開校、昭和43年廃校となった。
ニセコで出会った青年は今、上沢木の鉱山で働いているとのこと)

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